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多摩のむかし道と伝説の旅 №56 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

         中世の軍道 深大寺道を行く 2

              原田環爾

深大寺道2-1.jpg 東八道路を渡ると野崎八幡社がある。かつてはこんもりと樹木で覆われた古びた社であったが近年建て替えられた。元禄2年(1689)この地の開拓者が社地を深大寺の池上院に寄進し、同院が八幡社を勧請したという。祭神は応神天皇。本殿の傍らには薬師殿がある。言い伝えによると江戸末期、愛知県の鳳来寺の尼僧梅風尼によりもたらされ、毎年10月8日夜9時に「だんごまき」の行事が行われる。まかれるだんごは「薬師だんご」と呼ばれ、病気、特に眼病を治すのに霊験あらたかという。

 野崎八幡社を後にすると深大寺道は武蔵境通りとなる。以前は道幅が狭い割に交通量が多い道であったが、今は拡幅工事がなされすっかり様変わりしてしまった。通りを北へ向かうと交差点「三鷹市野崎」に来る。東西に交差する道は人見街道といい古い時代の官道だ。すなわち7世紀の古代武蔵国の官道である大宮街道の一部であるという。武蔵国の深大寺道2-2.jpg国府が府中に置かれる前は大宮が暫定的な国府であった。府中が整備されて後、府中と大宮を結ぶ郡衙道を大宮街道といい、その大宮街道のうち三鷹以西を人見街道と呼んだという。府中大国魂神社の祭礼の折は、大宮の氷川神社の神輿がこの大宮街道を通って人見村(現府中若松町)の御旅所まで来たという。

 人見街道を越えると続いて山中通りと交差する。ほどなく沿道左の細い路地の奥に小さな社が見える。井口新田の鎮守井口八幡だ。元文元年(1736)の創建で祭神は応神天皇だ。この辺りは武蔵境通りを挟んで左は井口、右は上連雀となる。どちらも江戸時代にここから北方2km付近を東西に流れる玉川上水が開削されたことにより拓かれた新田村だ。井口新田は江戸中期の享保期、八代将軍徳川吉宗の享保の改革により推進された武蔵野新田開発の波に乗り、上連雀村名主井口権三郎により西隣に続く新田として開発された。なお連雀の名は、玉川上水が開削されて間もない明暦3年(1657)、振袖火事(明暦の大火)により、焼け出された神田連雀町の町民達が土地を火除地として没収され、その代替として三鷹下連雀の地に移住させられ、そこに下連雀新田を開いたことに由来する。上連雀は寛文12年(1673)に検地が行われた新田で、豊島郡関村の井口家が拓いたという。

 深大寺道2-3.jpgところで明暦の大火を振袖火事と呼ぶのには、こんな話がある。麻布の質屋遠州屋の一人娘梅野は、お気に入りの紫縮緬の振袖を着て、召使に守られながら上野の花見に出かけた。そこで寛永寺の美しい寺小姓に出会い一目惚れしてしまった。以来、娘はその美少年を忘れることができず、恋煩いに陥り、次第に憔悴してついにはそれがもとで亡くなってしまった。両親は娘が愛用していた振袖を供養するため、本郷丸山の菩提寺本妙寺に納めた。明暦元年正月18日のことだった。見事な振袖だったが寺には無用なので出入りの古着屋に売った。振袖はその後上野山下の紙問屋の大松屋が買い、その娘が気に言って着たがまもなく病で死んでしまった。大松屋は娘の棺に振袖をかけ本妙寺に運び、娘が愛用した振袖を供養してくれるようにと寺に納めた。明暦2年正月18日のことでした。寺では振袖を供養後、再び古着屋に売った。ところが翌明暦3年正月18日、三度同じ振袖をかけた棺が本妙寺に運びこまれた。本郷元町の商人喜右衛門の娘の棺だった。寺はあまりのことに絶句してしまった。これは遠州屋の娘の怨霊が同じ振袖を着た娘の寿命を縮めるにちがいないと。そこで振袖を燃やすことにした。境内で経をあげる中、振袖を火の中に投げ入れると、折から吹いた強風にあおられて、火のついた振袖は天に舞い上がった。振袖は本堂の屋根にひっかかり火の粉を散らし、それがもとで江戸の町々に深大寺道2-4.jpg燃え広がった。翌日更に燃え広がり江戸中を焼き尽くし、ついには10万8千人もの死者を出す大火となった。江戸城の五重の天守閣もこの時焼け落ちたという。

 やがて丁字路「塚」で連雀通りにぶつかる。かつてこの辺りに二つの塚と徳川尾張公鷹場碑跡があったというが今はない。少し左手に江戸中期に創建されたという小さな大鷲神社が建っている。元は二ツ塚跡にあったが、明治初年の道路改修で塚は深大寺道2-5.jpg撤去され祠はこの地に移された。祠内には鷹場碑の破片が納められているという。因みに鳥居横の標石に刻まれた「大鷲神社」という字は武者小路実篤揮毫による。なお二ツ塚は江戸中期から明治初期頃まで深大寺道(鎌倉道)の宿場として栄えたという。

 「塚」から先の深大寺道はかつては集落の中を縫う細い街路であったが、今は拡幅工事された真っ直ぐ北へ伸びる車道になっている。そこを更に進んで上連雀一之橋という小さな橋を渡る。下を流れる細い用水路は仙川の上流部だ。仙川は小金井市貫井町北町の東京学芸大学辺りに端を発して東流し、武蔵境で中央線の南側にまわって三鷹市内に入り、三鷹からは調布を経て世田谷に入り、野川に合流した後二子玉川の兵庫島付近で多摩川に注いでいる。

深大寺道2-6.jpg深大寺道2-7.jpg 境南通りを過ぎると中央線のガード下に出る。拡幅工事前に見られた鄙びた踏切風景が消え失せてしまったのは残念だ。ガードを抜け更に北へ進むと道はゆっくり右方向へカーブするが、曲がらず真っ直ぐ集落の中へ分岐する道が深大寺道だ、分岐道に入ると程なく玉川上水の大橋の袂に来る。大橋は長らく昭和7年に架けられた古びたコンクリート橋であったが近年改修された。桜並木の玉川上水の風景とよく溶け合っている。玉川上水の筋向いの長土手は東京都水道局の境浄水場だ。このため深大寺道はここで一旦途切れてしまう。因みに玉川上水は江戸時代の承応2年(1653)から翌年にかけて、江戸の慢性的な水不足を解消するため、玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟によって開削された水路だ。羽村の堰で多摩川から取水され、武蔵野の大地を通って四ツ谷大木戸(現新宿御苑)に至る全長約43kmの水路だ。上水の完成は単に江戸への飲料水供給に止まらず、不毛の武蔵野台地に分水することにより新田開発に多大の貢献をした。水辺に沿ってコナラやクヌギ等の武蔵野の雑木林が今なお残されており多摩を代表する散策路になっている。

 深大寺道2-8.jpg途切れた深大寺道の続きを求めて浄水場の外周を反時計回りに迂回する。程なく井の頭通りとの交差点に出る。交差点の右側に樹木が茂った緑道があり、井の頭通りを越えてその先にも続いている。この緑道はグリーンパーク遊歩道と称しかつての鉄道の廃線跡だ。すなわち三鷹駅近くから堀合遊歩道を経て、ここより北東1km先の武蔵野中央公園まで繋がっている。実は三鷹は戦前は軍都として軍需産業が栄えた地域で、三鷹駅北側の武蔵野市緑町付近に旧中島飛行機製作所があり、そこへ資材を運ぶ鉄道として敷設されていた。戦後空襲で破壊された工場跡地に、西半分は米軍住宅用として昭和48年迄使われ、その後現在の都立武蔵野中央公園となった。一方東半分はグリーンパーク球場というプロ野球ヤクルトスワローズの前身の国鉄スワローズのホーム球場として開設された。収容人員5万1千人という規模の球場だったそうだ。それに伴い観客を輸送する手段として三鷹駅と武蔵野球技場前の間を鉄道が敷設され電車が走った。しかしながら武蔵野特有の赤っ風から球場の使用は1シーズンで終わり、運転は休止に追い込まれ、昭和34年廃止となった。球場跡地は今は都営の団地になっている。(つづく)




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