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批判的に読み解く歎異抄 №22 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場
 
        立川市・光西寺住職  寿台順誠
 
「異議篇」に対する私の見解 「異義篇」の批判的読解

(2)誓名別信計

 それでは、今日の中心問題に入ります。「誓名別信計」の各条文が果たして「造悪無碍」に対する批判として読めるかということです。

①十一条-誓名別信
 まず十一条を読みますね。

 一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、「なんじは誓願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信じるか」と、いいおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと、この条、かえすがえすもこころをとどめて、おもいわくべきことなり。誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば、まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいずべしと信じて、念仏のもうさるるも、 如来の御はからいなりと思えば、すこしもみずからのはからいまじわらざるがゆえに、本願に相応して、実報土に往生するなり。これは誓願の不思議を、むねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地僻慢疑城胎宮にも往生して、果速の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。

 皆さんこれを読んで、心惹かれますか?もし冒頭にこの文章があったら『欺異抄』は流行ったと思いますか?「師訓篇」の言葉にはすごく心に残るものが多いですけど、「異義篇」に入ると突然どこか理理屈っぽくなって、文学的にもイケてない文章になりますね。論理もあまりスッキリしないところが多くなりますので、「異義篇」しかなかったら『歎異抄』はおそらくブレイクしていなかったと私は思いますね。
 が、それはそれとして、ここで批判の対象となっているのは、阿弥陀仏の「誓願」(本願)を心の底から信じて念仏したらみな浄土に迎えとりますよ、往生できますよという願いを信じること、すなわち「誓願不思議」が大事なのか、それとも、たとえ信心はなくてもとにかく南無阿弥陀仏という「名号」を称えること、すなわち「名号不思議」が大事なのか、どっちだと人に迫る異義です。が、このテキスト自体からはこの異義を主張する人が「誓願派」又は「名号派」のどっちの派に立っているのか判断がつきません。この異義はただ「あなたはどっちを信じるのか」と言っているだけなのです。結論的には「誓願」と「名号」は一体に決まっています。そもそも南無阿弥陀仏という「名号」に阿弥陀仏の「誓願」が込められているわけだから、この異義のように「名号」と「誓願」を分離して別々のものにするのは邪道だと、唯円が言うことには私は異存ありません。
 ところがおかしなことに、了祥以来伝統的には、この条文で批判されている異義は「誓願派」に立って「名号派」を攻撃する立場に立つものだとされてきました。そして、「誓願派=一念義・造悪無碍」と見て、この条文が「一念義・造悪無碍」を批判していると読んできたわけです。しかし、先に述べたように十一条で唯円が言っているのは、単に「誓願」と「名号」を別のものだと見てはいけないということにすぎませんので、釈徹宗さんが言うように「誓願派」にも「名号派」にも偏してはいけないと言っているとは読めますが、だからといってこれが主として「造悪無碍」批判の条文だと読むのは間違いです(この点に関し特に参考になったものとして、佐藤正英『歎異抄論釈』青土社、2005年、244-288頁参照)。このように十一条には明確な「造悪無碍」批判の意図が読み取れない反面、「つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは‥・」という部分からは、ここで批判されている異義が、「善」が「往生のたすけ」となり「悪」がその「さわり」になるとして「善」を薦めるものだということが分かりますが、唯円はそのようなことを言うのはおかしいよという批判をしているわけですから、これは「専修賢善」に対する批判として読むことができます。また、続いて「誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり」と言っていることからは、この異義が「誓願不思議」よりも「名号不思議」を重視するものであって、それに対して唯円が念仏を「自行」(自力の行)にしてしまうものだと批判していることが読み取れますから、この条文は「造悪無碍」じゃなくて明らかに「専修賢善」を批判するものだと言えます。要するに、この十一条には明確に「造悪無碍」を批判する箇所はないということです。

名古屋市中川区 真宗大谷派・西雲寺の公開講座より





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