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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №51 [文芸美術の森]

                     歌川広重≪東海道五十三次≫・誕生前夜

                美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                             第2回 風景画に開眼

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≪鳥の目視点と近接拡大の技法≫

 天保2年(1831年)、歌川広重35歳の時、「東都名所」(10枚揃え)が刊行されます。東都(江戸)の名所10か所を絵画化したもので、一躍、広重の名を高めました。広重自身も、「自分の持ち味を発揮できるのは風景画なのだ」と悟ったようです。ここに、その後の広重の絵の特質となる「俳味」(俳句のような味わい)と、そこはかとない「哀調」をおびた独特の風景画が誕生したのです。

 その中の一枚が上の絵「高輪之明月」です。
 高輪は現在の品川駅あたりの地域で、今では埋め立てが進んだ結果、海岸線はかなり遠くなりましたが、当時はご覧のように東海道のすぐそばまで海が迫っていました。

 まず「構図」から見ましょう。

 海岸線に沿って奥の方へとゆるやかにカーブを描く家並みと、はるかに広がる品川の海とを、上空から見下ろすという描き方をしています。これは、伝統的に日本の絵師たちが得意としてきた「俯瞰的構図」(鳥の目視点)です。
 合理主義に立脚した西洋古典主義絵画では、人間(画家)が立って眺める視点を重視したのに対して、合理性にとらわれない日本の絵師たちは、想像力を自由に駆使して、空を飛びまわる鳥のような視点で下界の光景を描きました。この高い視点により、風景や家並みを広くとらえることが出来ます。屋根や障子が邪魔ならば、それを取り払って室内の人物たちを描くことだってやります。(例:「源氏物語絵巻」の「吹き抜き屋台」という画法)
 特に広重は、風景画に専心するようになってからは、この「鳥の目視点」を自在に使いこなしています。この絵では、広重は「雁の目」になっていますね。

51-2.jpg この絵にはもうひとつ、広重の特徴的な技法が見られます。

 満月の出た空を舞い降りる雁の群れを前景に大きく描いているところです。これは「近接拡大の技法」ともよぶべきもので、主要なモチーフを手前にクローズアップで描くやりかたです。これにより、遠近感が強調されます。

 この「俯瞰的視点」(鳥の眼視点)と「近接拡大の技法」は、広重の風景画にしばしば使われる効果的な画法となります。

≪「ベロ藍」:ヒロシゲ・ブルー≫

 「色彩」にも注目してみましょう。
 まず「青」。空にも海にも、青い色が使われています。この「青」はベルリンで開発された青色の化学顔料「プルシアン・ブルー」です。日本では長崎経由で輸入され、「ベルリン藍」と言われましたが、江戸っ子たちは「ベロ藍」と呼びました。
 最初は高価なものでした。我が国の絵画の中での最初の使用例は、伊藤若冲(1716~1800)の「動植綵絵」シリーズ中の「群魚図」に描かれた青い魚「ルリハタ」とされています。
 やがて江戸時代後期になると輸入量も増加、入手しやすくなった時、その発色の鮮やかさと定着性が絵師たちに好まれ、さかんに使われるようになりました。葛飾北斎の連作「富嶽三十六景」は、「ベロ藍」の魅力を存分に発揮したシリーズでした。
 広重は特にこの「ベロ藍」を好み、風絵画の中に効果的に用いるようになります。浮世絵が西欧に大量流出した明治開化期になってからのこと、西洋では広重の絵の青の鮮やかさに驚嘆し、「ヒロシゲ・ブルー」と賞讃しました。
 この絵で使われている青も「ベロ藍」です。海の青は、下から「ぼかし上げ」に摺られ、やや濃いめの空の青は「ぼかし下げ」で摺るという変化をつけています。

 一方、遠くの空に浮かぶ筋雲には「紅色」を刷き、全体の色数をおさえながらも、上下の「ベロ藍」と中空の「紅色」とのコントラストが鮮やかな効果を生んでいます。
 大きな満月は、空の青の中に「円」を型抜きして表しています。

≪俳味と哀調をおびた風景画≫

 このような描法と、「黄昏時に落ち行く雁と名月と海」という組み合わせにより、この絵には、秋の季節感とともに、しみじみとした味わいが生まれています。この哀愁を帯びた情感と俳句のような味わい(俳味)こそ、この後の広重の風景画に見られる持ち味となります。
51-3.jpg この絵が評判になったことにより、当時の高輪海岸がたとえ月の名所ではなかったとしても、広重が創り出したイメージが人々の脳裏に定着し、高輪は「月と雁のイメージ」と結びつくところになっていきました。広重の名所絵は、そのような影響力を発揮したのです。

 広重絵画の「俳味」について、少し触れておきたい。
 右の絵は、広重の描いた大判錦絵「月に雁」ですが、左上には「こむな夜か又も有うか月に雁」(「こんな夜が又もあろうか月に雁」)と「五・七・五」の俳句調で書かれています。どうも自作の句らしい。
 その意味するところは、「こんな素晴らしい夜が又とあるだろうか。何と、満月をかすめるように雁の群れが飛んで行く!」ということでしょう。

 武士出身で読書家だった広重は、自ら俳句を作ることはあまりしなかったようですが、芭蕉をはじめとする俳人たちの句をよく読んでいたらしい。この絵に添えられた言葉は、一説には「和漢朗詠集」から採ったとも言われますが、この絵の情感を盛り上げるために、このような句形にして書き込んだ、とも考えられます。
 この絵だけではなく、広重作品には、しばしば和歌や漢詩、俳諧のような「賛」が書かれているものがあります。それらの発想源のひとつとなったのが、「和漢朗詠集」だったようです。

 また、俳諧の分野では、江戸中・後期の俳人・松露庵烏明が編纂した『俳諧故人五百題』(古句を集めた句集)などから、「賛」を引用することもあり、このような俳諧書を通して、とりわけ芭蕉を敬愛し、蕉門の俳人たちの51-4.jpg句に親しんでいたものと思われます。
 この頃の広重は「一幽斎」という号を使っています。「幽」とは「幽玄」の幽であり、閑寂で繊細な精神的な美意識を意味し、芭蕉の「わび」「さび」に通じるものがあります。

 ただ、詩歌を愛好しながらも広重自身は実作者とはならず、自分の領分である絵画の世界で俳諧的情緒(俳味)を表現したのです。

 次回からは、いよいよ広重の代表作「東海道五十三次」について語っていきたいと思います。

                                                                  



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