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いつか空が晴れる №100 [雑木林の四季]

            いつか空が晴れる
          -チマッティ神父と良寛禅師ー
                  澁澤京子

 去年から寝た切りの父はテレビを見ることもほとんどなくなり、一日中、ベッドから落ち葉の積もった庭をぼんやりと見ていることが多くなった。父が見る庭の景色は私が見るのとはまた違ったものなのだろう。年を取るという事は年々赤裸々になっていくことなのかもしれないと、寝たきりの父を見ると思う。身体が思い通りに動かなくなっていくにつれ、もしかしたら余計なものが取れて、本当の自分に出会うのかもしれない。人は自分が無力の時に、最も真実の近くにいるのだと思う。

最近、私を慰めてくれるのは親しい友人とのやりとりと、寝る前によく聴いている「チマッティ神父のアヴェ・マリア」。偶然you tubeで見つけたもので、讃美歌のようなシンプルな曲と映像に出てくるチマッティ神父の優しいお顔を見たくて何度も何度も聴いた。
年を取るにつれて逆にますます清らかになっていく人というのが時たま存在する。私が師事しているシスターキャサリンも輝くような清らかな雰囲気でその場を浄化する「生きるパワースポット」のような方。一緒にいるだけで柔らかな優しい気持ちになれるのだけど、チマッティ神父もそういう人の一人なのだろう。

清らかさは、狭量な潔癖とは反対のおおらかで自由な感じにある。シスターキャサリンもチマッティ神父もその生涯を他人のために身を粉にして捧げてきた人たちなのであって、彼等の清らかさも自由も、その並はずれた忍耐力と利他心によって培われてきたものなのだろう。

1879年、チマッティ神父はイタリア中部の貧しい家庭に生まれた。子供の時に聖歌隊で歌っていると、感動したイタリアの有名な詩人パスコリが駆け寄って思わず抱きしめたというから天使のような歌声を持っていたのだろう。サレジオ会に入り、神学校の教師となり、自然科学や農学を教え、特に音楽では名教師であった。(彼が作曲したスコアは950以上)主に貧しい家庭の子弟を教え、学校が終わると頼まれれば病人の看護をした、まるで病気の子供を見守る母親のように献身的に祈り徹夜で看護することが幾夜もあったという。
「彼が教室に入るとただちに退屈さ、不快さ、争いが消え、皆が心地よく兄弟のようになる。私たちにとって一番の罰は先生の微笑みが消えることだった・・」
「チマッティ神父様がいて、その音楽と微笑みだけで僕たちは幸せだった。」
当時のイタリアの教え子の証言にあるように、生徒たちからとても愛される教師だった。

1926年、46歳のチマッティ神父は宣教師として日本にやってきた。日本へ来る途中の寄港地は殆ど植民地であったので現地の人の過酷な扱われ方に激しい嫌悪感を覚えた。「・・自然の傑作と対照的なのは、人間の労働における悪質な搾取、行き交う客船に見られる華々しい空虚な生活などです。」

当時、赴任先の宮崎の信徒には、迫害された長崎殉教者の子孫が多かった、多くは貧しくて、他人に警戒心を持ちやすい閉鎖的な性格で、最初はチマッティ神父を悩ました。宮崎信徒たちを励ますために、チマッティ神父は奔走した・・年譜で見るとスペイン風邪が収束したのが1920年、1923年には関東大震災、1930年には金融恐慌。1920年代と言うとジャズエイジ。ニューヨークでフィツジェラルドとゼルダ夫妻が華々しかった消費の時代で銀座あたりでもモボ・モガの贅沢でお洒落な風俗が流行する一方、大震災や金融恐慌があったりして、のちの2.26につながるような農村・漁村の窮乏もすでにあったのに違いない。その頃の日本の経済格差は今よりももっとひどかったかもしれないと思う。チマッティ神父が日本に到着した1926年には治安維持法が発令され、時代はファシズムの方向に流れていた。外国人は警察の監視下で、不自由な思いをせざるを得なかった・・

イタリアで校長先生をしていたとき、ある生徒から卒業式の場で学校を激しく批判されてもその生徒の勇気と正直を讃えてしまうほど民主的なチマッティ神父。(その生徒は後に立派な弁護士になったらしい)誰とでも対等な関係を結んで自由を愛するチマッティ神父は、上から命令を下すような強圧的で権威主義的なファシズム体制とはさぞかし相性が悪かっただろう。イタリアのムッソリーニ体制下でも、日本の軍国主義の中でもチマッティ神父は肩身の狭い思いをした。日本が軍事政権で神道一色になってきたとき、「・・これは一種の病気です。」と手紙に綴っている。
サレジオ神学校で天塩にかけて育てた日本の生徒たちが出兵し、戦地から訃報が次々に届くたびにチマッティ神父は泣いた。

チマッティ神父は人の上に立つ役職を嫌って拒否した。
「・・ピアノを弾いたり歌ったり踊ったりするのが私にはふさわしいのです・・モンシニョーレ(閣下)のような称号や飾りなど芝居がかって見えます・・私は自由な神の子でいたいのです。」
わけへだてせずにどんな人のことも丁寧に大切に扱い、どんなに偉くなっても皆と一緒に働き、人の嫌がるような仕事を率先して引き受けていたチマッティ神父。まるで禅の高僧のように一日中黙々と労働して、人の上下関係だの、権威やヒエラルキーを嫌ったのだ。日本の禅寺にある階級制度を嫌って批判した僧には一休禅師のほかに良寛禅師がいる。

いかなるが苦しきものと問うならばひとをへだつる心と答へよ~良寛

水上勉の『良寛』によると、良寛が反発した寺の身分制度を管理する厳しさは、幕府のキリシタン弾圧と関係があるものだったらしい、そしてチマッティ神父の最初の教え子のほとんどは長崎のキリシタン殉教者の子孫だった。

チマッティ神父と同じく、良寛もまた何も言わずに坐禅しているだけで、その場の人々を幸せな明るい気持ちにすることができる人だった、そして良寛の朗らかで明るい読経の声を聴くと、誰でも自ずと敬虔な気持ちになったらしい。チマッティ神父も良寛も多くの人々から愛され慕われる人だった。良寛の滞在した家はなんともいえない和やかな春のような雰囲気が漂い、良寛が去ってからもその暖かく和やかな空気はしばらく残っていたというから、修行を積んだ人は場の空気をガラッと浄化してしまうようなある種の力をもつものなのかもしれない。

チマッティ神父は子供と歌を歌ったり、サッカーをしたりして子供と遊ぶことが何より好きだった。良寛も子供と遊ぶのが好きで手毬をついたり、時には葬式ごっこもしたらしい、良寛が死体の役をやるとまるで本物の死体のようで(・・さすが禅僧)息を吹き返すところなどは迫真に迫っていて、子供が大喜びしたらしい。

作曲家で演奏家でもあったチマッティ神父は日本にいる間に2000回ものコンサートを開いた。裕福な日本人を対象にして、あくまで貧しい信徒の利益にするためだった。

「私は骨の髄まで日本人になりたい。」
ある女性は5歳の時にチマッティ神父のコンサートに連れて行かれて、母親にいくら「あの方は外国の方なんですよ。」と説明されてもチマッティ神父が日本人にしか見えなかったという。日本人の中でも一番良い日本人に見えたのだそうだ。
確かにチマッティ神父の穏やかな母性的な優しさは日本人的かもしれない。子供と一緒に無邪気に遊ぶ天真爛漫なところも良寛のようだし、他人には優しく自身は非常に厳しい修行をしているところも、つましく清貧に徹したところも似ている。
唐木順三が述べたように、良寛には日本人の原型のようなところがある。そして良寛禅師に似たチマッティ神父は、5歳の女の子にはどう見ても一番良い日本人にしか見えなかったのだ・・

第一次大戦のころ、イタリアでボランティアをしていたときに心無い噂を流されても釈明せずに黙々とボランティア活動していたところも良寛に似ている、良寛も誤解されて無実の罪で人から危害を受けることがあってもいい訳ひとつせずに念仏を唱えていた。チマッティ神父は他人を貶めたり、陰口を言う人間をとても嫌悪したらしいが、こうした苦い経験があるからだろう。すぐに言い訳したり、他人のせいにしたり、愚痴をこぼすこともない、まさに己に打ち克つ高潔な人だったのだ。「強くなければ優しくなれない・・」(フィリップ・マーロウ)は真実なのであって、国や文化、宗教も超えて、二人の生き方は純粋・誠実で優しい人間とはどういうものか、ということを教えてくれる。そしてこうした強い精神に支えられた優しさも、純粋な清らかさも、とても一朝一夕でできるものじゃないという事を考えると頭が下がる思いなのである・・

46歳で日本語の勉強を始めたチマッティ神父は日本語習得に大変苦労したらしい、当時の漢字の練習帳をみると良寛禅師の有名な「天上大風」を連想する。まるで子供のように夢中で練習しているだけに、チマッティ神父のおおらかで邪気のない人柄が逆によく表れているような字なのだ。チマッティ神父の説教が大変評判がよかったのも、日本語がたどたどしいために逆にもっと大切な、言葉を超えたものが人々の心に直接伝わったのかもしれない。

かにかくに止まらぬものは涙なり人の見る目も忍ぶばかりに
    -新潟三条地震の被災地の惨状を見て

良寛禅師の詩歌には歓びや悲しみ、彼の体温が直接に伝わってくるようなものが多い。人々の苦しみはまた彼の苦しみでもあったことがよくわかる。こうした共感能力があって、あの有名な「災難に遭う時節は災難に遭うがよき候・・」があるのだと思う。

「自分自身をごまかしてはなりません。苦しみ、十字架あるいは自分自身につりあった試練なしに完徳への道を歩むことはできません。」チマッティ神父

チマッティ神父は人の心の奥底が読めた。(修行した仏教のお坊さんにも人の心を読める方は結構いらっしゃいます)だから弟子たちは神父には一切隠し事はできなかった。人がわかるだけに、人の悲しみや苦しみも直接感じることができただろう。やがて、チマッティ神父は病に倒れ、小金井の病院に入退院を繰り返し、衰弱して寝たきりになっても周囲の人々を明るく励ましていたという。ご遺体は今、調布のサレジオ神学院に安置されている。

誰よりも多くの十字架を背負い、そして誰よりも高く飛翔した良寛禅師とチマッティ神父。母性愛に似た二人の柔らかな優しさ。男にとっても女にとっても、人間にとって一番大切なのは母性なのかもしれないと最近しみじみと思う。

良寛禅師はある人に「道とは何か?」と聞かれ、「道というものは母が身籠ると自然に母乳のでるようなものだ」と答えたという、~『良寛』持田鋼一郎

「歌ったり楽器を弾きながらも祈らなければならないことを忘れてはいけません。音符一つ一つは神のため、神とともなる愛の行為であるべきです。」チマッティ神父

チマッティ神父のアヴェ・マリア。まだイタリアにいた若いころに作曲したものだけど、どこか日本的な感じを受けるのは私だけだろうか?チマッティ神父はたくさんの曲を、良寛禅師はたくさんの詩歌を私たちに残してくれた。そして二人の心そのものである音楽と詩歌は今も私たちを慰めてくれる。






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