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梟翁夜話 №80 [雑木林の四季]

「信長は啼かぬホトトギスを殺したか」

             翻訳家  島村泰治

某テレビの大河ドラマとやらが晒す児戯的な光秀像に啓発されて、不図、信長を思ひ出す。戦国の雄と云へば、十人が十人、まず織田信長。それはさうだ、武田、今川がともに京を目指してゐた大きな歴史の流れに棹を差して、その流れを大きく変へた人物だからだ。

桶狭間がなかったら、日本史はその後どう流れただらうか。ぞくぞくする仮定だが、ここではあへてそれは語るまい。ここでは、桶狭間に賭けた信長の脳裏にはどんな思惑があったのか、いや、この人物がどんな性格だったから桶狭間ほどの暴挙に出られたのか、と云ふ話しをしてみたい。

啼かぬホトトギスについては、現代の感覚では啼くまで待たうとする家康の沈靜な理性がよしとされるのだが、殺せと言った信長は理性とはほど遠い、映像でステレオタイプに描かれる、ただ野性的な人物だったのか。野性味だけで藤吉郎を心服させられたか、家康を従はせえたかとなると、筆者は迂闊には頷(うなづ)けない。

かう思ふからだ。信長は心底から近代的な感覚の持ち主だったのではないか、西欧的な合理主義を、それと気づかず持ちあわせてゐた人物ではなかったか。後年になって、彼が安土でワインを嗜(たしな)み、地球儀を眺めながら国際感覚を身につけたかのように考えるのは、とんだ錯覺ではないのか。

信長は桶狭間ですでに理性的であり、合理的だった。病む信玄、公家趣味の義元に先はないと見抜いての「暴挙」だった。ともに、一つ日本を統べる器ではない、世界の中の日本を意識し、国のあるべき姿を予見して上での「暴挙」だったのでは。自らが乗り出す天与の時と確信しての桶狭間だったでは、と思ふのだが・・・。

啼かぬホトトギスは殺せの感性は、至極西欧的だ。家臣群の扱ひにしても、信長は一貫して合理主義、功利主義をとった。つまり、桶狭間から本能寺までの信長は、それまでの古典的な思考回路からは抜け出た、日本的なファッジネスのない合理主義者だった。それが、まだまだ脱皮できずにゐた日本の社会に、いや、自らの軍団にすらしっくり同化できなかった。だからこその本能寺だった。

信長は、本能寺で誰やらの企みで命を落とすまでもなく、その合理性が故に自らの死を招いたのだ。




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