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論語 №113 [心の小径]

三五三 陳成子(ちんせいし)、簡公(かんこう)を弑(ころ)す。孔子沐浴して朝(ちょう)し、哀公(あいこう)に告げていわく、陳恒(ちんこう)その君を弑せり、請(こ)うこれを討たんと。公いわく、かの三子に告げよ。孔子いわく、われ大夫の後に従うを以て、敢えて告げずんばあらざるなり。君いわく、かの三子者に告げよと。事にゆきて告ぐ。可(き)かず。孔子いわく、われ太夫の後に従うを以て、逢えず苦げずんばあらざるなり。

           法学者  穂積重遠

 「陳成子」は斉の大夫、名は恒、成ほおくり名。「沐浴」は髪あらい揚あみすること。祭祀その他大事に当る場合のいわゆる「斎戒(さおかい)沐浴」。

 斉の陳成子がその君簡公を殺した。孔子様は時に年七十一でとくに隠退しておられたが、隣国のことながらこれは大義名分に関する天下の一大事なりと考え、斎戒沐浴して身をきよめた後朝廷へ出て、「斉の陳恒がその君を拭しました。打ち捨ておかれぬ大逆でござります故、兵を起して討伐なされたいものと存じます。」と衷公に申し上げた。ところが当時魯の公室衰えて政権は大夫孟孫(もうそん)・叔孫(しゅくそん)・季孫(きそん)の三家にあったので、哀公は自ら決断し得ず、「あの三人に申せ。」と言われた。孔子様は失望して御前(ごぜん)をさがり、「自分も大夫の席末をけがした身汝、この一大事はどうしても申し上げなければならなかったのだが、わが君はご決断がつかず『かの三子者に告げよ。』と仰せられるとは。」と歎息しっつ、ともかくも君命なれば三家に告げたが、三家はきかなかった。斉の強大を恐れたのみならず、問題が大夫の不臣ということで、自分たちも「きずもつすね」で触れたくなかったのだろう。孔子様も現役ではないからその上の議論もできずやむを得ず引下がったが、「自分も大夫の席末をけがした身故、此の一大事はどうしても申し上げねばならなかったのだが。」と、かえすがえすも残念がられた。

三互四 子路(しろ)、君に事(つか)うることを問う。子のたまわく、欺くことなかれ、而(しこう)してこれを犯せ。

 ここの「欺」は「侮」の意味。わが国の軍記物などにもよく、敵に向かって広言をはき、「あざむいてこそ立ったりけれ」などとある。ここの「而」は「しかるのちに」の意味だから、「しこうして」と力を入れてよまなければいけない。

 子路が君に事える道をおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「君を侮ってはいけない。十分の敬意を尽した上で、場合によってはごきげんを損じようとも配が概して諌め争え。」

 子路は例の「行行如(こうこうじょ)」(二六五)で主人をバカにしてかかりそうだから、特にその点をいましめられたのである。古註にいわく、「犯すは子路の難しとする所にあらず、而して欺かざるを以て難しと為す。故に夫子先ず欺くなくして後に犯せと教えしなり。」


『新訳論語』 講談社学術文庫




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