SSブログ

批判的に読み解く歎異抄 №21 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場

        立川市・光西寺住職  寿台順誠

「異議篇」に対する私の見解 「異義篇」の批判的読解(1)専修賢膳計

③十八条-施量分報

 次は十八粂ですが、これはちょっと面白いですよ。

 仏法のかたに、施入物の多少にしたがいて、大小仏になるべしということ。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。まず仏に大小の分量をさだめんことあるべからずそうろや。〔注‥比興のことなり=道理に合わないことである〕

 これは、言ってみれば、お布施が多けりやその分だけ大きな仏さんになるというような話ですが、こうした異義を批判することは僧侶としては片腹痛いことですよね。残念ながら、坊さんの生活には、このように布施は多い方がよいなどと言うようなことがありますからね。そして、これはあまりにも低俗な問題だから、「多念義・専修賢善か、一念義・造悪無碍か」というような形で真剣に教義や倫理道徳の問題として論ずるようなことではないと思う反面、しかし社会における宗教の実態から考えると馬鹿にできない問題で、自分も免れていないとも思わされるわけです。
 が、いずれにしましても、やはり「多念義・専修賢善」の方が、量が多い方がよいというこの異義には結びつきやすいのではないかと思います。私は大学を出てここ正雲寺で仕事を始めたばかりの頃、元漁師町でお参りが盛んという、この下之一色の特性もあって、とにかく「三部経を読んでほしい。長いお勤めをして欲しい。お勤めは長ければ長い方がよい」といった要求に翻弄されました。お布施は多い方がよいというような問題が、私はまともな教義問題だとは思いませんが、しかし「多念義」の方がその正当化には利用しやすいですよね。一回念仏すれば救われるという「一念義」では、多い方がよいとは言いづらくなりますからね。ですから、この条文もそういう形で「多念義・専修賢善」に対する批判だと読めるのではないでしょうか。
 以上、十四条・十六条・十八条はやはり「専修賢善」に対する批判として読むことができるということを申し上げました。



名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。