SSブログ

いつか空が晴れる №99 [雑木林の四季]

      いつか空が晴れる
           -春の海― 
                 澁澤京子
   
(健康のためなら死ねる)の筋肉芸人中山きんに君によると、人間の身体というものはだいたい18歳くらいまでに、何が自分の身体に合って何が合ってないかを学習するものらしい。食事の好みであるとか味覚についていうと確かにそういうところがあるなあ。もしかしたら、人間関係なんかでもそうかもしれない。どういう人と波長が合って、どういう人とは合わないかも、18歳くらいまでに決まってしまうような気がする。
類は友を呼ぶ(似た者は似た者と容易に交じり合う)で、人は自分と同じものを共有していたり、似ている人間を引き寄せてしまうのだろう。

・・最後まで待たなくとも最初の一瞥で、友達になれるかどうかはわかります。なぜならすべての人が音楽であるから・『音の神秘』ハズラト・イナーヤト・ハーン

聴覚の優れた鋭い直観の持ち主には、最初に波長の合う・合わないがわかってしまうらしい。箏奏者で作曲家であった宮城道雄は、さらに相手の声を聴いただけでその人の気分や状況、頭の良し悪しや性格、あるいは美人かそうではないかまでわかったという。
そこまで鋭敏でない普通の人にも、言葉とは関係なく声の調子と雰囲気で相手の好意や悪意は容易に伝わってくることはある。相手が善意の人であるとふわっとしたやわらかい温かさ、すがすがしさ、そして包容力と大きさがあるが、隠していても悪意があると不自然な感じ、狭量でなんとなく品のない感じが漂う。人の持っている独特の雰囲気というのは、音楽のような感じとしてこちらの身体(無意識)に伝わってくるのである。その人の普段心の中で考えていることとか言動、その人の性格は隠しようもなく雰囲気としてにじみ出てくるものなのかもしれない。

コロナで「おうちで踊ろう、ひとりで踊ろう」の状況になっているけど、人とのコミュニケーションも音楽もダンスも、リアルで時間も空間も共有しないと本当の事は伝わってこないと思う。
特にバイオリンやギターなどの弦楽器などは室内で生で演奏されるのを聴くのと、CDやyoutubeで聴くのとは全然違う。生で聴くと空気の振動まで伝わってくるので、耳で聴くというより、身体、全身で聴くという感じになる。
それは人とのコミュニケーションも同じで、ビジネスはともかく、私たちは友人や恋人、家族など親しい人とはイメージと言葉のみでコミュニケーションしているわけじゃなくて、その人と会っている場所であるとかその日の天候であるとか季節や昼か夜かとか、隣にいる相手から伝わってくる雰囲気とか、すべてと関係してコミュニケーションしているのだ。
ネットでは言葉、イメージ、音で情報を伝えるけど、それだけでなんでも伝えられると思ってしまうのはそれ以外の(言葉を超えたもの)の存在に鈍感になっていくことじゃないだろうか。「聴く」というのは聴覚だけじゃなく、もっと大きな全体を感じる感覚なのだと思う。

論語の「六十にして耳順う」ほど難しいことは無くて、人の話をじっくり聞ける人というのは実はとても少ない。もちろん、話が伝わりやすい伝わりにくいには相性もあるけど、一般的に人の話をじっくりと聴くためには無心じゃなくてはできないのであって、私の知っている数少ない「じっくり聴く人」というのは、注意深く聴いて相手の言わんとすることを的確に把握できる明晰な人。じっくり聴ける人の言葉はそれゆえ人に対しても簡潔な言葉で説得力も持つし、人の洞察も鋭い。エゴの少ないほうが人のトーンを微妙に聞き分けることができるし、相手のトーンにも合わせることができるので、相手の心にすっと入りやすい。「じっくり聴く人」はゆったりしていて、人に命令したり強要する必要はない、相手の自発性を尊重して待つことのできる器の大きさがあって、「じっくり聴く」という行為は相手の人格を尊重する謙虚さの表れなのだ・・決して人に流されたり周囲に妥協することではなく、成熟した自我と余裕がないと逆に「じっくり聴く」は難しい。調和するという事は無意識レベルでおこる自然なことなのであって、顔色を読むとか忖度のような意識レベルでの不自然さとはまったく別の次元の事なのだ・・・そして相手のトーンがわかるということは、人の苦しみや痛み、歓びにも敏感で共感能力に優れ、世界の美しさも醜さも人よりずっとわかるということなのだろう。

我が強くて余裕がないと、人の話を途中でさえぎって自分の主張を強引に押し付けてしまうなど「じっくりと聴く」は難しくなる・・・まあ、他人のエゴはよく目につくけど、自分のことになると時折ハッと気が付く程度。しかも私など、興味のない話題になると頭のスイッチが自動的にオフになり、相手の語りがいつの間にかBGMに切り替っていることがよくあります・・

相手の微妙なトーンを聴きわけて無意識で受容し、的確にアドリブで応答するのはジャズミュージシャンがやっていることで、早逝したジャズピアニスト守安祥太郎は演奏中、他の仲間の頭に浮かんだ別の曲がすぐにわかって何も合図しなくても次には自然にその曲を演奏できたらしい。

優れた聴覚を持つ盲目のミュージシャンは少なくない。有名なのは、レイ・チャールズ、スティーヴィー・ワンダー、知らなかったけどネットで検索してみたらバッハもヘンデルも白内障の手術の失敗により晩年は盲目だったらしい・・
まだ若い辻井伸行さんのピアノは本当に素晴らしいし、日本の盲目のミュージシャンと言えばなんといっても宮城道雄だろう。一昔前のお正月はどこかに出かけて、ホテルで珈琲を飲んだりすると、必ずこの『春の海』がBGMとして流れてきた。小泉文雄の『日本の音』によると宮城道雄は(検校)で、これは盲人社会のヒエラルキーの中でも最高位にあたり、最下位のほうは(座頭)と呼ばれていたらしい、勝新太郎の座頭市の座頭である。明治初期までは江戸幕府は盲人の生活を保護するために、あんま、はり、きゅう、筝曲を盲人専有の職業として保護していたのだそうだ。

宮城道雄は、雨の音が好きでいつも自然の音にじっと耳を傾けていたという。人や世界に対して開かれた耳を持つということは、いつもやわらかな静かな心を持つことなのであって、宗教の基本はもしかしたら心を開いてじっと「耳をすます」ような徹底的な受動性にあるのだろう。一つの感覚器官を失っても、人は全体で感受できる感受性を持っていて、他の感覚器官がより鋭敏になるのだろうか。そして、視力を失っても耳の感受性が洗練されて他人の苦しみや痛みや歓びなど、人の繊細で微妙な感情にもとても敏感になってくるのかもしれない。

・・あなたのほうからみたらずいぶんさんたんたるけしきでせうが
  わたくしから見えるのは
  やっぱりきれいな青空と
  すきとほった風ばかりです。~『目にて云ふ』宮沢賢治

吐血によって声を奪われた時の心境を詠んだ宮澤賢治の詩。

事故だったのか自殺だったのか、いまだのその死因は謎のままの宮城道雄。彼のような優しく繊細な感覚を持つ人間にとって、この世界は生き辛かったのに違いない。しかし、宮澤賢治が修羅の中にも(すきとほった風)を見ていたように、宮城道雄も他の人には聴きとれないような美しい音楽を聞いていたのに違いない、と思うのである。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。