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梟翁夜話 №79 [雑木林の四季]

「齢は取るもの」

             翻訳家  島村泰治

齢は取るものだ。体のあちこちに不具合が出ようとも、齢は取っておくものだ。齢を取れば、若かった頃は思ひもしなかったことが起こるものと気付いて、やはり齢は取っておくことだ、と思ふ。

さう思ふには曰くがある。

ものを書き翻訳などをしながら、近ごろしばしば思ふことがある。言葉を紡ぎながら気無しか淀みが少なくなってゐる。言葉を選ぶ苦労がなくなった・・・。どう云はうか、書き悩むことがめっきり少なくなってゐるのだ。初っ端こそ工夫するが、筆が(いや、キーボードだが)走りだすや一瀉千里、とんとんと捗って句読点から終止符へ、布ならさらっと織り上がるやうになってゐる。

はて、これはどう云ふことか。確かに昨日今日の話ではなく、さう、ここ五、六年ほどの間にじわじわと感じるやうになったことを思へば、如何(どう)やら理由を二つほど思ひつく。一つは、ネット上でHPを介して書き始めたこと。カテゴリーを数編起こしてあれこれ書く経験から、確かに筆まめにはなった。なったが、言葉選びに苦がなくなったと云ふのは解せない。軽い言葉でさらさら書くことなら昔から苦にならなかったからだ。ここぞと云ふ要の言葉、言い回しがいとも軽く湧き出るやうになったことが、ネット上の執筆量に関わるとは思へぬ。

そこで不図気づいた。どうやら年の功と云ふ奴ではなからうか。ひと月ほどで八十六歳になる。思へば齢を取った。ここまで読んだ書物、耳にした逸話、目撃した状況、どれをとっても半端でない時間いや齢の経過を実感する。いずれも言葉の絡まぬ経験はない。どうだらうか、多年仕込んだ酒が発酵し、樽の継ぎ目から芳香たるエキスと香りを辺りに放つ様に、これだけの齢を経て仕込んだ言葉の精が発酵して筆先いや指先から迸り出てゐるのでは?

余談だが、最近私のHPを読まれたある御仁が、私の筆捌きに感じて作文指南を求めてこられた。不肖を顧みず私は諾としてこれに応じ、今嬉々としてその御仁に我流の文章指南を施させていただいてゐる。嗚呼、楽しからずや。

思えば、文章を綴る趣に比類がない。それは音楽も負けずに趣が深からうが、作曲するならいざ知らず、聴くのみの音楽なら文章を綴るに遙かに及ばない。言葉にしてからが、綴る趣は読むそれに遙かに勝る。

言葉の泉が齢を追って豊潤になるものなら、加齢大いに結構、寄る齢波など如何にも愚か、目指すと公言する百歳ももの足らず、泉の更なる豊潤を目指して、願わくば齢忘れの仙境に遊びたいものだ。喝。


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