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地球千鳥足 №140 [雑木林の四季]

壁の中:山羊の頭と裸の男   ~モロッコ~   

      グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子

 門をくぐると迷路が始まる。ここはモロッコ、フェズのメディナ(旧市街)、狭い通路の道端に野菜、果物、魚、香料の山がひしめき、シシカバブーを焼いているどの店にも、かいがいしく働く子どもの姿がある。どの路地も人で混みあい、角を曲がると限りなく迷路が続く。たまげたことに、殺したばかりの山羊の頭が7、8個、切り口を下に血を流して、けれども生きているような安らかな表情で売られていた。通りを向いて。1人の旅人がカメラを向けた。すると男が血の滴る首の角を持ち、その頭を振りかざして旅人を追いかけた。彼は金切り声をあげ、「ご免なさい!」と謝りながら走り、羊売りの男が消えてからも走り続けた。

 迷路の奥の一角にタネリー(なめし皮工場)はあった。速い流れのフェズ川の近く、異様な臭気のするところでヒョイと塀をくぐると別世界、見渡す限りコンクリートやモザイク貼りの水槽が、丸型、角型、大あり小あり、段々畑のように何段にもわたって並び、赤や青の、いつ変えたともしれぬ水が入っている。男たちが澱んだ水に浸かって皮を水に浸している。滑りやすい細い通路を注意して上がる時、見ると建物はいくつもの小部屋に分かれ、天井は低く、光の射さないプリズンの独房さながらの部屋があった。上半身裸の男が背を曲げて皮をなめしており、私の目は彼の顔に引き寄せられた。彼も私をチラッと見た。初恋の人に似ていた。

 「こんにちは!」と思わず挨拶した。驚いたことに彼も低い声で、「やあ」と言った。けれどもそれっきりであった。彼は仕事に戻り、2度と顔をあげることはなかった。丸めた背は語っていた。興味や同情に違いない私の親密さをきっぱり拒絶する、と。彼がこの小さな石室をさよならする日があるだろうか。一生ここから出られないのではないか?

 こことは一転、市場は華やかな雰囲気だ。美しく仕上がったジャケツ、スカートなどが売られ、客は値切って買うのが常識だ。売り手のおじさんたちは海千山千、負けたふりして要領よく稼ぐ。だが、あの石室に隔絶されて一番大変な部分を受け持つ裸の男たちの手にはビタ一文流れていきはしないであろう。外国の商人たちはたたきに叩く。その場合の採算調整は石室の男たちが受け持つのだろう。なめし皮職の男たちの姿はメディナの入り口付近で売られていた山羊の首の列以上に私の胸を締め付けた。

 山羊の血、男たちの汗と吐息で地面がぬかるんだ「塀の中」から私はもとの迷路に出てフェズ川を見下ろした。一昔、いや、二昔前か、このメディナに入った外国人は2度と帰ってこなかったという。挽肉にされたのかな。そうならなかった幸運を喜びながらもメディナの外への私の足取りは重かった。裸同然で皮をなめしていた男に後ろ髪を引かれて。数年前の出来事ながら今もこの男の顔は我が脳裡に鮮明に生きている。

140 のコピー.jpg
タネリーの水槽




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