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いつか空が晴れる №98 [雑木林の四季]

      いつか空が晴れる
        ―Balada Para Un Loco(狂人のバラード)-

                 澁澤京子

 言葉がわからず意味がよくわからないのにもかかわらず、聴いているうちに思わず涙が出てくる歌がある。だから音楽はすごい。ゴジェネチェとピアソラの『バラーダ パラ ウン ロコ』。ロコというのはスペイン語だと狂人とか愚かとか夢中になっている、の意味らしい。ジャズだと愚か者は「恋に夢中になっている人」を指すことが多いし、ラテン語のことわざには、「愛は(愛を知らない人間から見ると)愚かにしか見えないと」いうのがあるそうで、ロコもそういった意味なんだろうか?ロコ!ロコ!ロコ!・・バカ、バカ、バカ、ああ、私ってなんてバカなんだろう・・しかしピアントゥ・ピアントゥ・・そうよ、滑稽でも愚かでも失敗しても胸を張って堂々と生きていけばいいのよ!となんだか自分を励まされたような気分になって思わず涙ぐんでしまう曲・・・

この歌詞、そもそも元々が、メロン頭とか、街の電線にこしかけている?とかかなりシュールな現代詩のようなものらしい。恋の歌に限定されない、もっといろいろと自由に解釈できる歌詞なのだろう。こんな難解な詩でも大ヒットしたというのは、ピアソラとゴジェネチェの実力のすごさだろう。
詩の朗読に近いこの歌、ゴジェネチェの歌唱力は中世の吟遊詩人ってこういう感じだったのじゃないだろうか、と思わせるところがある。スペイン語が分からなくとも、朗読を聴いているだけでも十分美しい音楽になっているし、なんとなく雰囲気というか感じがひしひしと伝わってきて切ない。語りというものはもともと音楽に近いものだったんじゃないだろうか。

生きているのは、なんて素晴らしいんだろう!自由とはなんて素晴らしいんだろう!となんだか生きる勇気と歓びを与えてくれる、ピアソラ・ゴジェネチェコンビの「バラーダ・パラ・ウン・ロコ」

子供の時『アリとキリギリス』の絵本を読むと、夏の間バイオリンを弾いて浮かれていたキリギリスが冬になって、ぼろぼろの燕尾服にシルクハットというみすぼらしい姿で食べ物をわけてもらうためにアリの家を訪れる。アリの家の貯蔵庫には芋虫の死骸がぎっしり入っていて、アリの家族は芋虫の輪切りをナイフとフォークを使って楽しそうに食卓で食べている絵が絵本には描いてあった。
「キリギリスさん、あなたが夏に浮かれていた時、私たちは働いていたのですよ」とキリギリスに説教するアリ。
(コツコツと働いて貯金するのはいいことだ)というイソップの教訓話。子供の私はみすぼらしいキリギリスが可哀そうでこの話は好きじゃなかった。つい浮かれて楽しくバイオリンを弾いていただけなのに・・・

ところが最近、ネットで調べてみたらこの話はもともとキリギリスではなく『アリとセミ』で、セミは「僕は人生を思い切り謳歌したからね」とアリに言って潔く死ぬらしい。古代ギリシャのイソップ訓話では、働いてコツコツ貯金するアリよりも、人生を謳歌するセミのほうが偉かったのだ・・・もしかしたらイタリアの「食べて、歌って、愛して」のルーツにはこのセミがいるのだろうか?

勤勉・貯蓄型のアリが評価されるか、人生謳歌型のセミ(キリギリス)が評価されるかは時代や民族、国の文化により様々かもしれない。

・・決して明日のことを考えず、今だけを考え、飢えを満たし、乾きを癒す。明日の心配は明日のこと。そうした彼等は音楽の美を楽しむ権利を真に与えられたものです。・・・イスラム神秘主義修行者について『音の神秘』ハズラト・イナーヤト・ハーン

タンゴの振付師、Hさんは今you tubeの「ポンの部屋」でタンゴの解説をされていて、深い話だなあと感心して見ている。タンゴは相手あってのダンス、自己完結していてはダメで相手との開かれた(間)を軸にしての運動なのだそうだ。踊る時は相手の体重も自分の体重として考え、一体となって踊る。
ステップを間違えないことに注意するよりも、まず相手と良い関係、良い会話をするのが良いダンスにつながっていくのだそうだ。以前、Hさんはタンゴの振り付けをしていると人の性格がすべてわかってしまうということを教えてくれたけど、きっとその人の無意識の心理や性格が踊りにすべて出てしまうのだろう・・
まさに究極のコミュニケーションダンスなのだ。

そして、タンゴはどんな性格の人も受け入れてくれる、誰にでもその人にしか踊れないタンゴがあるのであって、タンゴの素晴らしさとはどんな性格の人も間違いも欠点もすべて受け入れてしまう懐の深さにあるのかもしれない。

都会っていうのはホームレスだろうが富裕層だろうが有閑マダムだろうが、怪しい男だろうが娼婦であろうがどんな種類の人間も受け入れる懐の深さと開放性があるから都会なのであって、『バラーダ パラ ウン ロコ』はそうした雑多な人々であふれている成熟した都会の歌。

明け方、まだバスの来ないバス停で坐って休んでいたら、目障りだというだけで殺されてしまったホームレスの女性がいた。バス停に設置してあるのは、実に座りにくそうな狭くて堅い椅子。気が付いたら駅のプラットフォームの待合の椅子というものも少なくなっている。(年寄りや身体の不自由な人はどこで休めばいいの?)公園からもホームレスが追い出されたりしてクリーンと安全を目指しているのだろうけど、クリーンで便利になればなるほど街から情緒が失われ、都会の成熟と多様性とはまったく反対の、一律で閉鎖的な方向に進んでいるような気がする。見かけだけ整然とした創造性のない、エネルギーの枯渇した社会。他人の痛みに鈍感な、皮膚感覚の欠如した社会・・

都会に成熟と多様性を与えられるもの、私たちに自由を与えてくれるもの、それはおそらく街のあちこちにもいる目立たない「ロコ」たちなのだ、気が付かないけど私たちの中にも「ロコ」は住んでいる・・「ロコ」は無防備で普段はひっそりしている、「ロコ」は人からバカにされても静かに微笑んでいる、「ロコ」は人を見下さない、「ロコ」は比較しない、「ロコ」は常に機嫌が良く誰にも拘束されない、「ロコ」は時々節度をわきまえず節度を越えて熱中する、「ロコ」は自身を求めないし自身を考えない、それゆえ「ロコ」は自由に飛翔する、「ロコ」は子供のように疲れを知らずに愉快でいる・・そして、「ロコ」がいなければ、私たちの人生はたちまち無味乾燥なつまらない毎日になってしまうことだろう、生きていても少しも楽しくないだろう。「ロコ」を大切にすること、そのためには心をやわらかくオープンにすること、そうすると私たちの人生はもっと多様でもっと自由な美しいものになっていくに違いない・・


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