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梟翁夜話 №78 [雑木林の四季]

「ちょっといい話」

              翻訳家  島村泰治

コロナ禍の年の暮れ、日頃の運動不足を補ひ無聊をも慰めやうと、愚妻ともどもある馴染みの珈琲店にいっときを過ごした。これは、その時の話である。

わが庵から東へ、車で半時間ほどの隣街に巨大ショッピングモールがある。屋上駐車場を含めて四階建て、端から端まで南北350m余の回廊に沿って様々なショップが並ぶ。この回廊が暑さ寒さを避けてのウォーキングには格好の場所で、ほぼ金曜日の午後を定番に、何千歩か歩いてはお決まりのカフェでMacBookを開いて一仕事するパターンが定着してゐる。

回廊いっぱいに流れる賑やかなクリスマスソングのBGMを聴きながらのウォーキングを終へて、いつものカフェへ。見れば、愚妻は先に入ってこちらを待ってゐる。席に着くや彼女は給仕の青年を呼んでいつものコーヒーを注文する。愚妻、いつもと様子が違い何やらその給仕と妙に親しげに話している。

注文を終へて愚妻が、「ちょっと聞いて。」と手振りを交えて語った話しがなかなか面白い。ここは、彼女の語りっぷりを臨場感を込めてご披露しやう。

「私が先に店に入ってメニューを見ると、メニューが新しくなってゐていつも頼んでゐたコーヒーがなくなってゐたの。で、水を運んできたお兄さんになぜと聞いたら、こう云ふのよ:

『すみません、メニューが変ってお客様がいつも注文されてゐたダークローストブレンドがなくなってしまいました。』

愚妻は驚いたと云ふ。その青年は我ら夫婦が呑むコーヒーの種類を覚えてゐた!ひょっとすると、客たちの好みを隈なく承知してゐるのではないか?話は続く:

「給仕さんは続けてかう言ったの。

『今のメニューで一番近いコーヒーはブラジルだと思いますが、今日は豆もありますのでメニューにはありませんがダークローストブレンドをお作りすることもできます。いかがいたしましやうか?』

もちろん、そうして下さいと頼んだわ。いい話、ね、ちょっといい話でしょ。あの人がコーヒーを運んできたら、ありがとうと言ってね。」

聞いて私はなるほどと思った。いい話だ。給仕魂が清々しい。日がな一日接客していれば、真面目な給仕はさうでもしなければ間が持つまい。そんな勘ぐりは彼がコーヒーを持って来た時の応対を見て、消し飛んだ。

「今回は特注ださうだね、どうもありがとう。」

私は思ひやりを労った。かの給仕曰く、メニューが変わってから、ずっと気になってゐたこと、自分がゐるときは「ダークローストブレンド」を用意できる、と。これは私の好みのドリップだ。そうか、俺の髭を見たら入れてくれるか。大いに満足だ。だが、それに入れ替わるブラジルの豆の方が結構美味かったりせぬとも限らない。次にここに寛ぐとき何を注文しやうか、ふと首を傾げた。

ちなみに、この珈琲店は全国展開のチェーン店で倉式珈琲といふ。給仕の名はO田で亡き母の旧姓だ。散歩と珈琲と細やかな思ひ出と、コロナ禍の忌まわしさをさらっと拭い去る一コマの出来事だった。




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