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コーセーだから №70 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」31

            (株)コーセーOB  北原 保

人生のマラソンは続く
一層の発展へ燃える情熱

まだ若い24歳

 コーセー化粧品は創立されて24年目を迎える。資本金は10万円から1億2000万円、実に1200倍になった。別に積立金は30億円余りあるのには驚く。コーセー商事株式会社、コーセー不動産株式会社、株式会社アルビオンと姉妹会社や傘下の会社をあげると10指になる。
 小林社長にとっては、戦後800社の化粧品会社がマラソンのスタートをしたのは、ついこの間のようだ。それから24年走り続けて、ついに業界で5位以内にランクされる会社に成長した。
  幾度か坂道や曲がりかどがあった--社員がふえて原価計算を考えない商品を出した時、不況で「銀行管理」というデマが飛ばされた時、管理が行きとどかなくて返品がどっときた時--だがランナーの小林社長はあわてず急がず、いつも自分の50年の体験を生かしたマラソンに徹してきた。
 「しいていえば経営の定石を踏みはずさなかったこと、そして新しい時代に応じた頭脳を働かせてプラスしてきただけのことですよ」
 こんなことは経営者ならだれでもいうことだが、意外にこの定石が守られなくて倒産した会社が多かった。小林社長は、妻きんさんに先立たれて以来、仕事の関係で多くは東京のホテル暮らし。「この歳になって一人で暮らすのは不自由だが、とても合理的ですよ」
 1ヵ月のスケジュールは会社の機動力を考察して秘書課長と協議の上につくられ、それに従って動く。内部はもちろん今日は名古屋、明日は福岡という月も相当あるが若い頃からセールスマンだったせいか、小林社長は平気で西に東に動く。そのあい間をくぐって朝5時に起床して、ゴルフをたしなむ。「ゴルフは健康にいいというが、まったくだ。頭が整理されてヒョイといい考えがわいてくるんですよ」とまだまだ意欲満々である。
 日本の経営者にとって70年は一つの節である。経営評論家にいわせると、経営者像が明治から昭和に交代する時代だという。
 コーセーの小林社長はちゃんとその布石も心得たものだ。3人の二代目はコーセー常務取締役、アルビオン代表取締役、コーセー推販部長と仲良く社内の評判を得ている。しかし創業者の社長にすれば、二代目にコーセーを渡すときは新しいコーセーの発展の年でなければと考える。社長と10才違いの聰三専務とは名コンビで共に張り切っているから「ゴルフを楽しむ日は多くなっても社長は仕事が命だと思っているよ」と専務はいう。
 社員たちにいわせると「社長から仕事を引いたら何も残らない。そんな人だ。死ぬまで仕事を続けるでしょう。われわれよりむしろ若いからね」と感心する。
 こんな話がある--小林社長は日本画や洋画をみる目も高い。百貨店などに行くと、いつの間にか消えて秘書をあわてさせる。たいてい画廊で熱心に絵をみている。そうかと思うと、夕方早く終わる日は、日生劇場の新劇を見物に出かける。翌朝、女子社員に「あの女優はいい女優だね」などと話しかけてくる。大学出のサラリーマンや高校出の女子社員も若さでは顔負けである。小林社長が「50歳で創業したんだから私はまだ24歳だよ」という気持ちが社員たちに伝わってくる。
 大企業の『経営の神様』松下幸之助氏のように、1時間、1分を社会のためにという天下国家の大それた考えは小林社長にはない。むしろ、明治生まれにはめずらしい淡々たる経営者ともいえよう。
 コーセーは昭和34年(1959年)に労働組合が結成された、が、労使関係は前向きで非常に健全な関係で今日まできている。なぜなのか、ずらりと社員の月給をみると業界ではトップクラスである。小林社長は「他よりいい生活にめぐまれなければ、いいチエは浮かんでこない」としごく当たり前の返事だが、これも50歳までサラリーマンをした創業者なればこそのチエ。労使関係がいいのもこの辺に因があるのだろう。
 コーセーの小林社長は今夜もホテルの一室でコーセーの発展のための秘策を練っているだろう。(おわり)
                                            (日本工業新聞 昭和44年11月15日付)

31ー1980年松下幸之助対談.jpg
共に明治生まれの経営者だった松下幸之助氏との対談が1980年に実現した


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