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多摩のむかし道と伝説の旅 №54 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

            多摩のむかし道と伝説の旅
     ―松姫と童謡「夕焼け小焼け」ゆかりの案下道を行く―4

                原田環爾

案下道5-1.jpg バス停「力石」を過ぎると派出所の前にくる。派出所の左横に北へ入る路地がある。因みに路地に入って前方の丘を上れば将門神社がある。将門とはもちろん平将門のことである。将門の活躍した舞台は常陸(茨城県)や下総(千葉県)であり、恩方に将門ゆかりの神社があるというのは不思議なことである。将門は桓武平氏の祖高望王の孫で。10世紀の初頭腐敗した京の中央政権に反抗して常陸で反乱を起こした坂東の英雄だ。天慶3年(939)常陸国府を襲撃、更に坂東八ヶ国の国府を次々と落とし、自らを新皇と称して独立王国を宣言した。朝廷は参議藤原忠文を征討大将軍として京より派遣するとともに、東国の諸豪族に将門討伐を命じた。その命に応じたのが下野の豪族藤原秀郷だ。将門は秀郷との戦いに敗れ天慶4年(940)落命する。歴史的には将門が西多摩に足を踏み入れたという事実はないが、将門を祀る神社や伝説は西多摩各地に残されている。考えられる理由の一つとして将門一族が西多摩に遁れて隠れ住んだことによるのかもしれない。将門神社のある丘の麓に草木家の墓所がある。草木家には将門の遠裔との言い伝えがあり、家臣として仕えたとの家伝があるという。

案下道5-2.jpg 力石の集落を後にするとやがて前方右手斜面に尖がり頭をしたガラス張りの温室群が見えてくる。温室の前には数軒の民家があり、沿道左には「夕焼け亭」と称する質素な小屋があってかつては蜂蜜を売っていた。陣馬街道を訪ねた折りは必ずここに立ち寄りアカシアやレンゲの蜂蜜を買ったものだ。

 ほどなく「夕やけ小やけふれあいの里」に差しかかる。街道案下道5-3.jpg右手に詩人中村雨虹の墓がある。墓は新しく近年移設されたものと思われる。「夕やけ小やけふれあいの里」の正面入口に来る。園内すぐの所の建屋はお土産を売る棟だ。入口をやり過ごしバスターミナルを過ぎると高留橋に来る。橋を渡ると道はほぼ直角に左へ折れて進むが、橋の袂から右の山手へ入る小道がある。小道の先にはこんもりと樹林で覆われた小山があり、その上に宮尾神社がある。宮尾神社は童謡「夕焼け小焼け」の作詞者である詩人中村雨紅の生家で、宮司を務めた神案下道5-4.jpg社でもある。静まりかえった境内には下記の童謡歌碑が刻まれた石盤碑がある。

    夕焼け小焼けで日が暮れて
   山のお寺の鐘が鳴る
      お手々つないで皆かえろ
      烏と一緒に帰りましょう

 中村雨紅は明治30年宮尾神社の宮司の次男として生まれた。詩人野口雨情に師事したことからペンネームを雨紅とした。青山師範学校在学中、東京から郷里へ帰る際は八王子からこの案下道を徒歩で往来した。そんな夕暮れ時のある日、道沿いの寺々から聞こえる染み入るような鐘の音に思わず浮かんだ詩が「夕焼け小焼け」となって生まれたのだろう。

高留橋に戻り北浅川沿いに進む。高留はレトロな郵便局や民家が建ち並ぶ小さな山里の集落だ。長い風雪を経てきた旧家が散見され、味わい深い景観を見せている。この集落はまたの名を関場と呼ぶ。近くのバス停にも「関場」という名称になっている。というのはかつてここに関所があったことによる。すなわち集落の中程の一角に口留番所の旧跡碑が立っている。江戸時代甲州裏街道である案下道の出入りを監視するために設置された。番所は村持ちで、村方36人が交代で警備に当たったという。明治初年に廃止された。またこの地は信玄の娘松姫が武蔵国へ案下落ちした最初の場所である。口留番所碑の傍らには「松姫之碑」も併せて立っている。碑面には郷土史家の佐藤孝太郎氏撰になる次の様な格調高い碑文が記載されている。

案下道5-6.jpg 「甲斐の山々憂愁に静み、天下布武の叫喚は、風林火山の家風を焼き、甲源の嫡流挽歌哀し。天正十年壬午四月武田信玄第六女松姫ら、勝沼開桃寺を脱し甲斐路の山谷を武州案下路の山険を踏み分け、和田峠を下り、高留金照庵に仮宿の夢を結ぶ。故郷の風雪はるかに偲び肌寒きを受け、転じて河原宿心源院の高僧に参禅し、更に転じて横山(八王子)御所水に移り住み、機織の手作りに弟妹を育つ、幾ばくもなく天正十八年庚寅六月関東の世変に会し、北条氏亡び徳川氏江戸に入府と共に甲斐の旧臣八王子千人同心を結び、八王子 守衛に来り住し、松姫の安否を尋ね、米塩の資を助く。元和二年(1616)四月十六日年五十六にして信松院に歿す。松姫の生涯は戦国動乱の中に終始し、政略婚の辛酸に殉じ、清純の操志を貫き通す。その清風の香しき清節は武甲の天地にこだます。婦道の鑑といふべし。先代尾崎栄治つとに松姫の生涯を貞婦婦道の象徴とし、金照庵址保存を宿願す。茲に追慕の碑を建て先覚の遺風を継ぐものなり」と。

 街道の少し先の落合橋で道は二手に分岐し、左は橋を渡って和田峠へ向かう陣馬街道、右は檜原へ抜ける醍醐道である。その醍醐道を入った所に松姫ゆかりの金照庵があったという。今は小学校の敷地内になっている。

落合橋を渡ると、この先陣馬高原へ向う街道は山も深くなり、また道幅も一 段と狭くなり、バス1台がようやく通れる程度となる。山懐の深い緑に見とれながら特養ホーム横のくぬぎ沢橋を過ぎればやがてバスの終点「陣馬高原下」に至る。ここから先はもう陣馬山への急登の坂道となる。案下道(陣馬街道)の旅はここで終わりとする。



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