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論語 №111 [心の小径]

三四九 子貢いわく、管仲は仁者にあらざるか。桓公、公子糾(こうしきゅう)を殺すに死すること能わず、又これを相(たす)く。子のたまわく、管仲、桓公を相けて諸侯に覇(は)たらしめ、一(ひと)たび天下を匡(ただ)す。民今に到るまでその賜(たまもの)を受く。管仲なかりせば、われそれ髪(はつ)を被(こうむ)り袵(えり)を左にせん。あに匹夫匹婦の諒(まこと)を為(な)し、自ら溝濆(こうとく)に経(くび)れてこれを知らるるなきがごとくならんや。

                歩学者  穂積重遠

 子貢もまた疑って、「管仲は仁者でないのではありますまいか。桓公が公子糾を殺した時、主と共に死ぬことができず、かえって主の仇(あだ)たる桓公に事(つか)えたのは、どうもその意を得ませぬ。」と言った。孔子様がおっしゃるよう、「管仲は桓公を輔佐して諸侯連盟の旗頭たらしめ、たちまち天下を粛正安定し、人民が今日までもその恩沢に浴している。もし管仲がなかったなら、われわれは夷狄(いてき)に征服されて、髪ふりみだし着物を左前にきる監完の風俗にされていたであろう。管仲がその前主のために死ななかったのをかれこれ申すが、管仲のごとき大志を抱く者が、小さな義理人情にこだわってみぞどぶの中で自らくびれ誰にも知られず死んでしまう平凡男女のようであってよいものだろうか。」

 子貢もまた子路と同じ疑いを起したのに対して、孔子様が相手が「言語」の子貢(二五五)だけに、さらにいっそう言葉を尽して管仲を弁護していられる。しかしこの点は大いに問題であって私も子路・子頁と共に粛然足らざるものがある。孔子様は前には管仲が礼を知らぬことをきびしく責めて、「器小なるかな」と言っておられるのだから(六二)、この場合にもその大功は認めつつも最初の出処進退を誤ったのは惜しいことだと論じた方が、筋が通るのではあるまいか。この二章ではあまりにも成功主義・実績主義のようで、周の粟(ぞく)を食(は)まずわらびを食べて餓死した伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)を絶賛される孔子様に似合わしくない。殊に最後の匹夫匹婦のたとえに至っては正に明治初年に物議を醸したかの「権助首くくり論」であって甚だもって孔子様らしくないのみならず、差し当り殉死の忠臣召忽(しょうこつ)に対して苛酷失礼ではないだろうか。そこで学者間にも色々議論があり、ある古証は「桓公は兄なり、子糾は弟なり。仲、事うる所(子糾) に私(わたくし)し、これを輔(たす)けて以て国を争うは義に非ざるなり。桓公のこれ(子糾)を殺せるは過てりと錐も、而かも糾の死は実に当れり。仲始めこれと謀を同じくせば、遂にこれと同じく死して可なり。これを輔けて争うことの不義たるを知りて、将に自ら免れて以て後功を図らんとするも亦可なり。政に聖人その死を責めずしてその功を称す。もし桓弟にして糾兄たらしめば、管伸輔くる所の者正し。桓その国を奪いてこれを殺さば、管仲と桓とは世を同じくすべからざるの讐(あだ)なり。もしその後功を計りてその桓に事うるを与(ゆる)さば、聖人の言すなわち義を害するの甚だしくして、万世反覆不忠の乱を啓(ひら)くことなからんや。唐の王珪(けい)・魏徴(ぎちょう)、建成(唐高祖の太子)の難に死せずして、太宗怒岩(たいそう・達成の弟)に従いし如きは、義に害ありと謂うべし。後に功有りと錐も、何ぞ贖8つぐな)うに足らんや。」と弁明しているが、すこぶる苦しい議論であるのみならず、前記の通り桓公と糾といずれが兄か弟かということが問題なのだから、立論の根拠が薄弱だ。要するに「大行は細謹(さいきん)を顧みず」の観念が濫用されると、それこそ論者のいわゆる「万世反覆不忠の乱を啓きはせぬか、ということを私は心配する。聖人といわれる孔子様も稀には意地になってかような極論をされることもある人間味を私はむしろおもしろくも思って、私もあえて極論を試みたが、寛容な孔子様がお聞きになったならば、「丘や幸いなり、いやしくも過ちあれば人必ずこれを知る。」(一七七)とおっしゃるだろうか。


『新訳論語』 講談社学術文庫

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