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批判的に読み解く歎異抄 №19 [心の小径]

異義篇をどう読むか―『歎異抄』の著者(唯円)の立場―

          立川市・光西寺住職  渡辺淳誠 

 二、「異義篇」の批判的読解

1.なぜ「異義篇」を中心に読むのか?

 さて、今日の主たる問題は「異義篇」をどう読むかですが、それに入る前になぜ「異義篇」を中心に読むのかということをちょっと申し上げておきます。
 『歎異抄』という書物において「師訓篇」と「異義篇」とどっちが中心だと思うかと問われればそれは当然「異義篇」です。唯円って人の考え方は「異義篇」に込められているからです。では「師訓篇」は何のためにあるかと言うと、親鸞聖人が仰ったことの証文・基準として挙げてあるわけで、それに照らし合わせてみると、最近こういうことが言われているけどおかしくないか、という形で「異義篇」が展開されているわけです。だから論文に喩えたら本論はあくまで「異義篇」なんです。
 ところが私が面白いと思うのは、「異義篇」には十三条を除くと心に残る言葉が殆んど無いことです。例えば、誓願と名号は一体のものか別々のものか、なんていう十一条の論議などは坊さんや学者同士でやるような、とてもマニアックな議論ではないでしょうか。もし『歎異抄』に「師訓篇」がなくて「異義篇」だけだったら、絶対人気は出なかったと私は思います。有名な言葉は殆んど「師訓篇」の方にありますよね。まず「悪人正機」(三条)がそうでしょ。それから二条なんてよく引かれますよね。「たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」などはとても有名な言葉ですね。「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」(四条)とか、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」(五条)とか、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(六条)とかといった言葉もみな「師訓篇」にあり
ます。また、「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろう」(九条)といったテーマも「師訓篇」にあります。このようによく引かれる言葉の多くは「師訓篇」にあるわけですが、しかしこの書物の本論はあくまで「異義篇」なのですから、それを見ないと書いた人の立場・考え方は分からないのです。そうでないと『欺異抄』という本を読んだことにならないのです。ただ『歎異抄』に関する書物は非常に多いですけど、「異義篇」についてちゃんとした解説をしているものは少ないですね。例えば、「師訓篇」だけ取り上げて「異義篇」の解説なんか全然していない本もあります。それはおかしなことなのですよ。ですから、とにかく「異義篇」をどう読むかということをちゃんと言っていない書物はあまり信用しちゃダメですっていうことを、私は言いたいわけです。

2.「異義篇」の一般的な見方

 そこで次に、先ほど触れておいた妙音院了祥の「誓名別信計」と「専修賢善計」に分ける分類がやはり「異義篇」を読むにあたっての出発点になりますので、まずはそれ(巻末の【師訓鷺と異義篇の関係図式】)を再度確認した上で、この分類が意図するところをさらに詳しく見て参りたいと思います。
 この分類の「誓名別信計」の「計」とは「自力の計らい」ってことです。そして、「誓」とは「誓願」、すなわち阿弥陀仏の本願のこと、「名」とは南無阿弥陀仏という六字の「名号」のことです。この「誓願」と「名号」の二つは一体のものなのか別々のものなのかという議論をし、本来他力の本願念仏の教えでは一体のものと捉えなきゃいけないのだけれども、それを別々に捉えてしまう、そういう根本的な誤りから生まれてくるような異義を「誓名別信計」というふうに呼んでいるわけです。これは、文字通りそういうことを言っている十一条(誓名別信章)で代表して、この十一条に十二条(学解念仏章)・十五条(即身成仏章)・十七条(辺地堕獄章)を加えた四か条をワンパッケージとして「誓名別信計」と呼んでいるということです。
 それから十三条(禁誇本願章)・十四条(一念滅罪章)・十六条(自然回心章)・十八条(施量分報章)の四つが「専修賢善計」に分類されていますが、これは念仏以外の善を修めなきゃダメじゃないかとか、自力の修行をしなきゃいけないじゃないかとか、念仏だけじゃ救われないから様々な努力をして善を積まなきゃいけないとかというような計らいから生まれてくる異義について批判したのがこれら四か条だということです。前回取り上げた十三条には「まったく、悪は往生のさわりたるべLとにはあらず」とありました。要するに、善悪は「宿業」で決まっているので、善をなせなどと言ってもそれはいわば上辺だけ「賢善精進の相」を示すことにしかならないといった批判を十三条はしているわけで、そうした「専修賢善」という計らいに由来する異義を非難する条文が以上の四か条だということです。
 そこでこの了祥の分類の意図するところを示そうとして私が作成したのが、巻末の【『欺異抄』「異義篇」の一般的な見方】という図式です。これに沿って説明しますと、まず仏教は自力で難行を行って悟りを開こうとする「聖道門」と、易行である他力の念仏を称えて往生することを願う「浄土門」に分けられます。ところが浄土宗(法然門下)でもまた、「一念か多念か」という論争が起こりますし、それと同時に「専修資善」と「道悪無碍」という倫理道徳の立場をめぐる対立も生じてきます。この争いにおいて「多念義・専修賢善」の方は結局「聖道門」に再接近することになるのですが、とにかく『欺異抄』を高く評価してきた人たちは、了祥のこの分類に依りかかって、「専修賢善・多念義」と「造悪無碍二念義」の中間に、どちらにも偏らない中道を行く正統な念仏者がいて、『欺異抄』の著者はこの正統念仏者の立場からバランスよく「専修賢善」と「造悪無碍」の両者を批判している、そういうふうに見てきたと言ってよいと思います。異義を「専修派・実行派・倫理派・功利派・常識派」と「誓願派・理論派・哲学派・観念派・高踏派」に分類する藤秀翠の見方も、また「律法化の異義」と「概念化の異義」に分類する梅原真隆・早島鏡正の見解も、そういうものとして見ることができると思いますし、最近では釈徹宗さんがNHKのEテレ「100分de名著」という番組で『歎異抄』(十一条)について以下のように述べていたものが、同様のものとして挙げられるでしょう。

 この二つの異義〔造悪無碍と専修賢善〕については‥・唯円は「どちらに偏っていても駄目ですよ」と言っています。社会的な視点から見れば、一念義系の方が具合が悪い。事実、一念義系の人々が問題視されました。しかし、多念義的な立場になってしまうと、そもそも他力の教えの本義から外れてしまいます。なぜなら今までの仏道とそれほど変わらないのですから。
 唯円はこの両方の立場を批判しています。しかも両方への批判をうまく配置しており、唯円の構成力を見て取ることができます。(釈徹宗『欺異抄-仏にわが身をゆだねよ土NHK100分de舞著」ブックス、2019年、72-73頁=〔 〕内は順誠の補足)

 以上のように、『欺異抄』の「異義篇」については、一方で「専修賢善」を批判しながら返す刀で「造悪無碍」もバランスよく批判している、というのが従来の一般的な見方であったと言うことができるわけです。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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