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渾斎随筆 №71 [文芸美術の森]

陶磁器の鑑賞

              歌人 会津八一                                         

 こんど小山富士夫君が、東京からやって来て、懸下の数ヶ所で、われわれのために、陶磁器の講演をしてくれられることになった。ことに今回は、ただのお話だけでなく、最近に小山君が、大へんな苦心をして、最近式の天然色の寫眞機で、歴代の陶磁器を撮影された、そのフィルムを持って来て、それを映寫しながら、説明をして下さるといふので、これはほんとにありがたいことだ。
 私は二十だいに國を去って、ずつと東京に暮らしてこんど引上げて新潟へ歸つて見ると、四萬の人口が二十何萬かに増してゐるし、その人たちの風俗なり、言葉なり、町の區畫なり、だいぶ變ってゐるが美術の趣味のことも、昔なら應擧や文晃の繪とか、海星や山陽の書幅でもいぢくり、そしていくらか茶器でもひねくれば、それで一かどの趣味家のやうな顔をしたもので、その頃は、陶磁器の鑑賞などいっても、至って幼稚なものであった。これは新潟だけがさうであったといふのでもないが今になって見ると、新潟では、もう應撃だの文晁だのといっても、誰もちっとも気乗りがせぬばかりか、いつそ佛蘭西の名書でも欲しいといった顔をしてゐる人もある。そして、もつと目につくのは、陶磁器の知識と趣味が、この地方でも、かなりの程度高まってゐることだ。
 陶器の歴史は古い。これを世界的にいへば、千年、二千年、もつとずつと昔にさかのぼっても、早くも立派なものが方々に出来てゐた。そしてそれらについて、文献や傳説も、かなり豊富に遺ってゐるが、その文献や傳説が、果してどの安物に、どんな具合にマッチするのか、そのところが、よく解決されぬままに、それぞれ、そのままに傳はつて来てゐる。そしてその貿物も、昔あつて、今は無くなつたものもあるし、時代の移り行くうちに、これまで見覚えのなかつたものが、時々土中から出て来たりする。そして同じ品物でも、まるで達ふ思ひがけもない地方から出て来るのもある。それをみんな、一人の力で整理して、その道の宿題をすっかり解決するわけには行かない。そして、もともと東洋のものでも、今では世界中の學著や研究者たちが、皆で総がかりで研究し始めた。欧米の博物館にもあちらの個人々々の手もとにも東洋のものが相當に集められてゐるし、正倉院の品物なども、世界の各地から見學にも来る。そして国境を越えて意見が戦はされ、そして落ちつくべきところに結論が落ちつく。かうした明るい今日の大勢であるから、田舎物識りの口傳だとか、内のおやぢの覚え書などを虎の子のやうに秘蔵してゐても、今の世の中へ、そんなものを持ち出すことは出来ない。古證文の出しおくれといふものだ。
 小山君は、たしか一橋の商科大學の出身であった。この人が落合村の ― その頃はまだ村であつた ― 私のところへ訪ねて見えたのは、今から二十何年も前であった。たしか料治熊太君が案内役であつた。その頃の小田君は、まだ随分お若かつたのに、もう日本中の主な窯跡、それに朝鮮の窯跡まで巡りつくしてをられ、それから自分で土をひねって、焼物を作ってをられた。私は大森のお宅までその作品を拝見に出かけて、折からご在宅のおとうさんにお目にかかったことがある。するとおとうさんから「せがれは、銭にもならぬものばかり作ってゐますが、あんなことをさせておいても、いいものでせうか」といふご相談を受けた。そして私は「大變立派なものです。大にやらせて下さい」と保讃して歸つたことを覚えてゐる。
 これだけのことは何でもないやうで、決してさうでない。文化史とか美術史とかいふものを研究する人たちは、まづ参考書や寫眞をあつめて、最後に一度見學旗行でもすれば、なすべきことは、みんなしてしまったやうに思ってゐるのが多いが、もしその人たちが、製作の心境、その實技、かういったところに、自分の體験から来たところの、しみじみとした同感がないなら、用意として一番大切なものが放けてゐる。私はさう信じてゐる。小山君は今日の大成のために、その頃から、この大切な下地を作ってゐられたのである。
 その後小山君は駒込の東洋文庫へ通って、文献の勉強が始まった。そのために、自分だけその近くに下宿して、この有名な圖書館のたくさんの書物の中から、数年の間に古陶磁に関する文献を二萬件あまりを抄出された。これは惜しいことに、その下宿が近火で焼けた時に、全部亡くしてしまはれたけれども實技以外の、この文献の研究は、今日の小山君の博大な知識の基礎をなしてゐるにちがひない。
 それから後、小山君の學問と、識見と、實技とは、平行して進んで止まずに、今日に及んでゐる。その間に発表された、いろいろの研究は、随分たくさんあって、その中でも、正倉院にある陶器の系統を考定したり、中国の青磁の起源を追求したり、定窯の位置を危険を冒して踏査して決定したり、そのほか陶磁器の全分野にわたって、その業績は廣く深く、著述もいろいろあっていづれも世に重じられてゐる。そして今では文部省や國立博物館で、この方面の取調を据任してゐられる。
 私はさきほど陶磁器の研究は國際的協力の姿になってゐるといったが、この點からいつても、われわれの小山君は大立物で、たとへば米国のウォーナー博士とか、佛蘭西のグルッセー博士か、そのほか外國から来る文化方面の學者たちは、陶磁のことは、きまつて小山君が引きうけで相談に應じてゐる。
 この小山君が新潟へ来て、一部の人たちのために講義をしてくれたのは、實は今に始まったことでなく、昨年が、もう二三度目で、おなじみも多くなってあると思ふが、この小山君が、従来の黒インクで印刷した寫眞版の貧しさに気づいて、鮮明な天然色の映畫による解説を、日本の各地で試みようとされる時に、われわれの地方が、その封切を拝見してゐるうちに、世界の水準の上に、正確な説明を聞きながら、陶磁史の正確な認識を得られることは、何よりもありがたいことだ。個人々々のためにも、文化生活向上の意味から、こんないい機會を見遁すべきではない。
                                   「新潟日報夕刊」昭和二十五年九月二十七日

『会津八一全集』 中央公論社

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