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じゃがいもころんだⅡ №36 [文芸美術の森]

おばあさん、頑張れ。

               エッセイスト  中村一枝

 食べ物には旬のものというのがよくある。寒ブリとか大根とかその時宜に応じて、旬という言葉を使う。人間にだって旬のときというのがあって、役者さんなども、ああ、今、旬だな、という気持ちが自然に湧いてくる役者さんがいる。
 でも、おばあさんの旬というのは聞いたことがない。だいたい旬の中にはどこかいきのいいというニュアンスがあるから、おばあさんのイメージにはあまりそぐわないのだろう。自分がおばあさんになって、改めておばあさんというものが、こんなにも世の中の新しいものから離れているものかという、情けなさの方がいや勝さって、おあばあさんの優越感なんて少しも浮かんでこない。おばあさんが華やかなものではないことはもとからわかっていたにしてもだ。
 おじいさんにはなぜか、年輪を経た智恵とか、古びたものが持っている一種のみやびみたいなものもがるようだ。全部のおじいさんがそうだというわけではないが、なぜか、おばあさんより高尚に見えてくるから妙である。昔話などでも、なぜかおじいさんは清貧に甘んじ、どこか高潔で品よくみえるが、おばあさんには、ずる賢さとか、欲張りとか、いうイメージがついて回って、おじいさんに比べて点数が低い。実生活では、みごとなおばあさんがたくさんいるのにと思ってきた。
 考えてみると、「おばあさん」と呼ばれて、はい、よっとにこにこ登場してくるおばあさんなんて果たしているのだろうか。おばあさんという言葉がずっとつなできたイメージは、どうしても清新さとか、柔軟性とか、進歩的とかいというものと遠く離れているように見えるのは私のひがみだとうか。 自分がおばあさんになったからといって、急におばあさんをより高尚に見せようというわけではないが、どうも私くらいの世代にはおばあさんという名称がおじいさんにくらべて価値が低いような気がしてならない。意地悪ばばあは数多くあるのに、意地悪じじいは少ないのもこれまた不思議なきがする。この際、おばあさんのイメージアップをはからないと、おばあさんになりかかりの女性たちは、決していい顔でおばあさんにはならないと思う。
 実際、世の中の利権にからんでいるのはほとんどが男たちで、女性はそのうちのごく少数に過ぎないことは周知の事実である。おじいさんは決して、清貧ではないのである。
 コロナで世の中が変わり、いろんんな変事がはじまろうとしても、男と女の地位を逆転するようなことはまだまだ起きてはいない。
 私が育った時代はまだまだ男女の同県の意識が低く、下手にそれを訴えても逆に女性のおろかしさにすり替えられてしまうこともあった。でも、本当に優れた人間は男であっても女であっても、認められる。実際、いい男も、いい女も、先ず人間としての誠実さや謙虚さに裏打ちされた人間であることを、私はずっと見てきた気がする。

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