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雑記帳2020-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-12-15
信濃町から歩いてゴールは表参道、青山に縁の深い女性作家3人の跡を辿ります。

信濃町の名の由来は、江戸時代、下総、上総の藩主を務めた永井家の2代目当主、永井尚政が信濃守となった折、ここに下屋敷があったことに由来します。

駅前に、江戸後期の戯作者、滝沢馬琴の住居がありました。(馬琴はペンネーム、ならば本来は曲亭馬琴というべきところでしょうが、現在はこの名で通っています。)
馬琴は深川の生まれ、信濃町の御家人屋敷に住んで、漢文調の長編「南総里見八犬伝」106巻を執筆しました。執筆途中で失明した馬琴を長男の嫁、路が助けた話はよくしられています。

明治神宮は大正9年、明治天皇と昭憲皇太后を祀って設立されました。今年で100年をむかえます。

神宮外苑は元青山練兵場。聖徳記念絵画館を中心に、体力の交情や文化芸術の普及のためにて、明治記念館や多くのスポーツ施設が造られました。
明治神宮体育大会の為に国立競技場もつくられ、のちに国民体育大会の基になりました。

聖徳絵画館には幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた絵画を展示しています。昭和43年には明治100年を記念して絵画館学園が併設されました。
建物は、建設当時のまま保存されていて、国の重要文化財になっています。

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聖徳記念絵画館の建物を正面に見て左側の繁みの中に1つの石があります。 これは、レプリカではあるものの、1926年(大正最後の年となる大正15年)に 樺太庁より寄贈された4個のうちのひとつです。
日露戦争の結果、南樺太が日本に割譲されると、樺太中央部の北緯50度線が日露の国境になり、日本は4個の標石を設置したのでした。
今は樺太はロシア領に復帰していますが、当時日本で唯一の地続きの国境でした。

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都心とは思えないほど緑が多く残されている外苑には、銘木がいくつも見られます。中には2代目が天然記念物だったというなんじゃもんじゃの木(今のは3代目)や御観兵の榎(2代目)など麗々しい名前の付いた樹もあります。

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夏には白い花が咲くというなんじゃもんじゃの木(学名ヒトツバタゴ)
御観兵榎 のコピー.jpg
御観兵の榎

青山通りから絵画館をのぞむ道の両側が外苑イチョウ並木です。
250mに146本のイチョウが植えられた並木は、明治41年、新宿御苑から在来種の種をもらって育てたということです。
4年に一度トリミングして先端の尖っを樹形をたもち、1本ごとに10cmずつ高さをズラすなど細かな手入れをしています。そのかいあって、毎年、木の葉が色づく秋は都内有数の人気スポットです。コロナ禍の今年は外国人観光客はいませんでしたが、11月最後の土曜日、黄金色の葉が風に舞う様は、イチョウがまさに今年の最後の輝きを見せているようでした。

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外苑イチョウ並木7 のコピー.jpg
ここでもテラス席は人気。

青山小学校となり 青山南23番地の大貫家に岡本かの子は生まれました。ここに大貫家の別荘があったのです。
与謝野晶子に師事して歌人としてスタート、画家の岡本一平と結婚して生まれたのが岡本太郎です。
作家としての活動は晩年でしたが、死後に妖艶な作風の多くの遺作が発表されました。
実生活でも奔放な恋愛でしられ、一時期は夫と愛人が同居するという奇妙ななくらしもあったといいます。そのくせデリケートな心は傷つかずにはいられない、そんな彼女を一平は終始支えたのでした。自らの放蕩の負い目があったのかもしれません。
かの子と一平、太郎の3人のお墓は多摩霊園にあります。そういえば、かの子の墓石はなぜか観音像でした。

青山に縁の深い女流作家が3人います。共通点は奔放に生きたことでしょうか。

青山通りの名は美濃郡上藩青山家の下屋敷があったことに由来します。
4代目藩主、青山幸成(ゆきなり)の院名が梅窓だったことから菩提寺は梅総院と名付けられました。小藩ながら老中もつとめた青山家の敷地跡に建つ13000坪の広大な寺院(現在は4000坪)です。

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金明竹のアプローチもおしゃれな寺です。

女流作家3人の2人目、宇野千代は梅窓院に眠っています。
何人もの画家や作家との同棲や別離、結婚をくりかえしながら、96歳で亡くなるまで現役の作家として活躍しました。

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「幸せは 幸せを 呼ぶ」と刻まれた石には晩年彼女が愛した桜の花びらも刻まれている。

近くの長者丸通りには宇野千代が晩年住んだウノハウスがあります。今は一階にショップのある、3階だての小さなマンションです。
長者丸通りは、昔、この付近に渋谷氏の長者が住んでいた、とか、この付近に長者丸という千石船の船着き場があった、とか諸説あるようです。

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ウノハウス

善光寺は信州善光寺の東京別院です。
徳川家康により谷中に勧請されましたが、元禄の大火でこの地に移転、現在の本殿は昭和49年のものですが、こちらもなかなか立派なお寺です。
境内には高野長英が逃亡中たちよったという高野長英の碑があります。
善光寺の境内神社だった秋葉神社は 明治になると分離されて近くに移転しました。今も青山の鎮守です。

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善光寺

青山では路地裏のフリーマーケットもおしゃれ。おしゃれな店はいっぱいあります。

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青山古市 
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静岡発のタルト専門店 キルフェボンQuil-Fait-Bon

路地を巡って表道にでると、山陽道書店の壁に谷内六郎の壁画が目に入りました。
山陽堂書店は120年以上の老舗です。

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「傘の穴は一番星」の壁画

表参道は大正8年(1919)に整備された明治神宮の参道です。
青山通りから原宿駅まで約1キロのケヤキ並木が続き、世界的な有名ブランドのショップが立ち並ぶ、人気のおしゃれな通りです。
そんなところにも小さな稲荷神社を見つけました。大松稲荷神社です。
江戸時代、巨大な松がたおれた跡に祠が建てられ、あたり一帯が組屋敷であったころには、神楽の音もひびいていたとか。

稲荷神社のかどを曲がった小さい通りに南青山第一マンションが建っています。
かって皇室中心主義運動を唱えた徳富蘇峰の寄付により文化施設として建てられた青山会館が昭和46年に建替えられ、今のマンションになりました。
ここに3人目の作家、向田邦子が住んでいました。台湾旅行中、51歳の若さで飛行機事故で亡くなりましたが、数多くの人気TV番組の脚本やエッセイを残しました。

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南青山第一マンション

彼女がが亡くなって来年は40年、表参道に建つホール併設のビル、スパイラルでは今、向田邦子没後40年のイベントが企画されています。
そのビルの前に、高野長英隠れ家跡の標識があるのですが、これに気づく人はほとんどいないということです。

蛮社の獄で小伝馬町の牢につながれたものの牢の火災に乗じて脱獄、各地を転々としたのちに江戸に舞い戻って隠れ住んだ屋敷の跡です。(6年間の逃亡は吉村昭の小説「長英逃亡」に詳しい)ここで捕らえられた長英は護送の途中で絶命しました。

話は前後しますが、青山通りは江戸時代、青山百人町と呼ばれていました。
若年寄り支配下の鉄砲隊「百人組」の組屋敷は青山、根来(市ヶ谷)などにあり、今でも新宿百人町が町名にのこっています。屋敷には下級武士が多く住んでいました。

ランチは「カフェ&ダイニング・ゼルコバ表参道」で。ここもテラスが人気のお店です。
石川県の有機野菜とカンパチの前菜、メインは鮭のグリルでした。

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