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医史跡を巡る旅 №79 [雑木林の四季]

江戸の疫病 疱瘡神 其の四

             保健衛生監視員  小川 優

新型コロナウイルス対策、「勝負の三週間」という掛け声だけの対策は当然のように効果は全くなく、ようやくGO TOの利用を制限する方向での検討に入ったということで、政府の重い腰が少しは上がりそうです。とはいえ決定に至るまでまだまだ迷走して時間が掛かりそうですし、おまけにその対策も中途半端な半腰状態で、感染抑止のための特効薬的効果は期待できそうもありません。
日々「感染者が過去最多を更新」とのテロップが踊り、人々はその報道にウンザリしながらも慣れてきて、「経済のためには…」と呟く傍らで、いざ自身が体調を崩しても医療機関を受診することすら叶わないという不都合な事実には気付かない。東京ではとうとう、新型コロナウイルスに感染した軽症者の宿泊施設入所も厳しくなりました。宿泊施設がいっぱいで無症状はもちろん、味覚障害程度の症状や、現状症状がほぼ軽快している人を、あらたに受け入れることが難しくなっています。
そして一方で、医療機関での自費検査や、検査機関での検査で陽性になった感染者は、適切な診察や、行政的な把握がされないまま野放し状態。感染者が市中で、いつもと変わらず出歩くこととなれば市中感染期、そして爆発的感染拡大を迎えることになります。
爆発的感染拡大に至らなくとも、このまま感染者数、ひいては重症者数の高止まりが続くようならば、早晩にも医療体制を維持できなくなります。これは単に新型コロナウイルス患者の死亡率の上昇につながるだけでなく、普通の人の助かるはずの命が助けられない状況になる、ということを意味します。

今のところは幸いにも、欧米のような爆発的感染拡大とまでは至っていませんが、医療機関にとっては重症患者の増加によって徐々にボディブローが効いてきていて、足元はフラフラの状態です。診療報酬の特例的な上乗せなど、やっと財政的な支援が医療機関にも届くようになっては来ましたが、実際に働く医療従事者に、その働きに応じただけの配慮がされているとは言い難く、金銭的はもちろん、なにより体力、気力ともに疲弊が著しい状態です。現場にとってはカネとともに、ヒトが切望されていますが、もとより一朝一夕でどうなるものではありません。第二波の頃から危機感を持たれてはいましたが、国として具体的な対策が取られないまま第三波に突入してしまい、とうとう自衛隊の看護官派遣を求めなければならないような、危機的状況に直面してしまいました。
医療資格者には諸事情で現在医療業務に従事していない、潜在的な免許保有者が多数います。ただ免許があるからと言って、復職してすぐに現場で働くことは難しいです。医療現場は専門化が進み、治療法も日進月歩、日々変わっていきます。復職のためには研修が必須となる所以です。そしてもうひとつ、何よりも大切なのはモチベーションアップです。免許者が医療現場から離れている理由は人それぞれで、もし障害があるのならばその障害を取り除くこと、そして「その気」を起こすための環境整備が急務です。

あだしごとはさておき、取手の疱瘡神塔めぐり、最終回となります。
取手宿は利根川の渡河のための宿場町として、さらに水運によって大きく栄えました。そのためソトから疫病が持ち込まれることも多く、感染症の侵入にも敏感だったと考えられます。取手の疱瘡神塔を地図にプロットすると、利根川に沿って多く見られるとともに、宿場町を囲むように点在していることがわかります。

さて、前回の大聖寺から利根川に沿って、取手駅方向に戻ります。実は直線距離的にはこの近くにもう一か所、疱瘡神石塔を祀る神社があるのですが、ある事情で遠回りしなければ行くことが出来ません。その事情については、後程。
この辺りは利根川河川敷が新たに開拓され耕作地となったらしく、長兵衛新田と名付けられています。その河川敷も、今は洪水対策で野球場や運動公園として活用されています。それらを左手に見ながら歩き、相の川橋たもと、街道の右手に、背の高い樹木の茂る杜が見えてきます。長兵衛新田の浅間神社です。

「疱瘡神石塔その① 長兵衛新田浅間神社」

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「疱瘡神石塔その① 長兵衛新田浅間神社」 ~茨城県取手市長兵衛新田 浅間神社

浅間神社には疱瘡神石塔が2基あり、造立年に百年以上の間があります。それでも基本的な意匠は変わっていないのが不思議です。まずこちらが古い方、そして取手最古の疱疹神塔でもあります。造立は享保四年(1719)、徳川吉宗により享保の改革が始まり、新田開発が盛んにおこなわれた時期と相前後します。石塔は船形、注連縄を張った上部に額付きで疱瘡神の文字。男神、女神ともに座っており、男神は他の石塔と異なり幣束ではなく、重箱か桝状のものを持っています。

「疱瘡神石塔その➁ 長兵衛新田浅間神社」

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「疱瘡神石塔その➁ 長兵衛新田浅間神社」 ~茨城県取手市長兵衛新田 浅間神社

もう一方は天保九年(1838)。前々年の天保七年が天保の大飢饉で、その影響は天保十年にまで及びました。前年には大塩平八郎の乱も起こっています。船形、両神座像は変わりませんが、神像の位置が大きく異なります。神像は上部にまとめ、「疱瘡神」と「三玉大明神」の文字が石塔の大部分を占めます。男神は幣束、女神は徳利状のものをそれぞれ持っています。

取手駅へ向かいます。取手駅も東口は少し寂しく、駅から離れると建物もまだらになります。常磐線沿い、県立取手第一高校のある丘を登ったところに、大師堂と大日堂があります。

「疱瘡神 台宿大日堂」

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「疱瘡神 台宿大日堂」 ~茨城県取手市台宿 大日堂

お堂の後ろ側に隠れて、疱瘡神石塔があります。傷みがひどく上部は欠損し、半ば地中に没しているようです。特徴的なのは、他の石塔と男神、女神の位置関係が逆で、向かって左側が男神、右側が女神になっています。わかり辛いですが男神の横に「大日山」、現在は欠けてしまって失われましたが、女神の横には「元神」の文字が刻まれていました。男神は幣束を、女神は徳利を持っています。

もう一カ所のお社、小堀地区の水神社に行くには、利根川を渡らなければなりません。取手駅から線路沿いに利根川岸まで歩いて渡船を使うか、東口から出ているコミュニティバスを利用することになります。

「小堀の渡し」

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「小堀の渡し」 ~茨城県取手市小堀

渡しと聞くと、「さすが宿場町、風情があるなあ」などと私などは早合点してしまったのですが、実は生活に密着した存在理由があります。そもそもなぜ一カ所だけ、疱瘡神石塔が利根川の取手市街対岸にあるのでしょうか。
実は水神社のある小堀地区、明治以降の利根川河川改修によって市街から切り離され、飛び地になったという経緯があるからです。利根川は暴れ川で、度々氾濫して住民を苦しめました。取手付近で蛇行していた川筋を直線として、堤防を築き洪水を防ぐ工事が明治時代に行われたのです。そのため小堀地区は取手市であるにもかかわらず川向うとなりましたが、橋を渡るためには大利根橋まで大きく迂回しなければならず、かといって川幅は広く容易に橋をかけることもかないません。そのために現在でも渡し舟が活躍しているのです。そんな小堀地区に、水神社はあります。ちなみに小堀は「おおぼり」と読みます。

「疱瘡神石塔 小堀水神社」

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「疱瘡神石塔 小堀水神社」 ~茨城県取手市小堀 水神社

渡し舟が休航日だったため、かなり遠回りのコミュニティバスでやっと辿り着いた水神社。バスの折り返し地点から少し歩いたところにあります。そして本殿の脇に疱瘡神石塔があります。全体的にスマートな感じですが、浸食がひどく神像の表情をうかがうことが出来ません。石塔の上部に注連縄が刻まれているのが辛うじてわかります。寛保元年(1741)の造立です。

調査が不十分なため、まだ私が訪れていない神像の刻まれた石塔が取手にあるかもしれませんが、とにかく16基をご紹介しました。
共通するのは高齢の男女双体であり、質素な服装で、男神は幣束、御幣を掲げ、女神は徳利のような酒器を持っている姿が描かれています。双体石塔は道祖神や庚申塔に多く、道祖神では夫婦和合を祈ってか仲睦まじく寄り添う、あるいは抱き合ったものもよく見られます。一方で取手の双体疱瘡神は、どこかよそよそしくすら見えます。

形に描かれた疱瘡神をご紹介してきましたが、最後にご神体として祀られている例を一つ。
中央線快速は酔客にとっては怖い電車です。ほろ酔い気分で慌てて飛び乗り、座席に座ってウトウトでもしたら最後、良くて高尾、運が悪ければ青梅や大月、下手したら河口湖にまで連れていかれてしまいます。もちろん時間帯によっては、帰りの電車はありません。
そんな中央線、東京都を過ぎ、一旦神奈川県を通って山梨県に入ったところが、上野原。上野原駅を降りて、九折の急な山道を登って中央高速を越えたところにあるのが疱瘡神社です。

「疱瘡神社」

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「疱瘡神社」 ~山梨県上野原市上野原

「この地に残る伝承と記録によりますと、江戸時代の初め、疱瘡神と縁のある越前国(福井県)湯尾峠生まれのあばた顔の老婆が、諸国遍歴の途中、この地で倒れ、村人の手厚い看護に感謝して「この地を疫病から護る。疱瘡の神を祀れ」と言い残して亡くなりました。そこで村人は湯尾峠から疱瘡の神を勧進して、萬治四年(1661)三月、疱瘡神社を建立しました。
当時、疱瘡(天然痘)は、伝染性が強く激烈で不思議な症状を示すため、人々は「これは鬼神の仕業である」と考えて恐れ、神に祈って免れようとしました。わが国には六世紀に仏教伝来とともに侵入し、大流行を繰り返して多数の死者を出し、日本人を長くかつ深く苦しめた疫病です。
そのため、人々の疱瘡神への崇敬は篤く、往時、疱瘡神社の三月と十二月の祭礼は参詣で賑わいましたが、種痘によって疱瘡が絶滅してからはそれも絶え、今日、地域の人々によって祭りが営まれ、神社の維持が図られています。
平成二十五年十二月八日 疱瘡神社奉賛会」~神社案内板より
疱瘡神社社殿には、神社ご神体とともに朱塗りの「疱瘡婆さん」のご神像が祀られているそうです。

今も昔も、制御できない疫病への畏れは変わりません。疱瘡神石塔巡りについては、機会を見てまた取り上げたいと思います。


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