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多摩のむかし道と伝説の旅 №53 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

           多摩のむかし道と伝説の旅
     ―松姫と童謡「夕焼け小焼け」ゆかりの案下道を行く―4

                原田環爾

 都道61号線で鍵の手で交差し。上宿通りと称する宿場通りに入る。150m南の現陣馬街道と平行する真直ぐな通りだ。源正院入口を左にやり更に進むと再び鍵の手となる。角の一角に地蔵堂が立つ。鍵の手に曲がって更に進むと恩方第一小学校の前に出る。グランドの外縁に沿って道なりに回り込むと小さな下り坂となって、程なく北浅川沿いの陣馬街道に出る。近くにはバス停「松竹」がある。川原宿はここで終わるのであろう。ここから先の案下道は現在の陣馬街道を西へ辿ることとなる。因みに街道を東へ下り、交差点「川原宿」の手前の小道(鎌倉街道山ノ道)を右折して深澤橋で北浅川を渡れば、そこに心源院という古刹がある。信玄の娘松姫が仏門に入った寺だ。
案下道4-1.jpg さて北浅川に沿って街道を西へ採るとすぐ松竹橋の袂に来る。現在の橋は新しく架け替えられたもので、橋の袂に昭和32年竣工の旧橋名板が記念として保存されている。松竹橋は八王子城の搦め手口に通じる橋で、落城秘話を伝えるものである。すなわち天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉が小田原城を包囲した頃、支城である八王子城は前田利家や上杉景勝からなる北陸部隊の猛攻を受けた。前田利家は大手門から、上杉景勝は松竹橋の搦手口から攻めた。景勝には配下に城内をよく知る平井無辺なる八王子出身者がいたことで奇襲に成功。城主北条氏照不在の中、城代横地監物の懸命な守備にもかかわらずたった1日で炎上陥落した。城攻めは戦国の作法を越える凄惨なもので、城内にいた兵も女子も大半が命を落としたという。
案下道4-2.jpg 松竹橋を後にすると、街道と北浅川を跨ぐ巨大な圏央道が現れる。鄙びた山間には似つかわしくない構造物だ。圏央道をくぐり、恩方事務所を右にやりすごすと浄福寺の門前に来る。真言宗智山派の寺で山号を千手山と号す。鎌倉時代の文永年間(1264~1275)に創建されたと伝えられる。裏山は浄福寺城址で、室町時代の至徳元年(1384)、大石信重が築城したと言われる。案下城とも新城とも呼ばれ、中世の多摩を生きた大石氏代々の居城となった。ちなみに大石氏は木曽義仲を祖とし、室町時代の初頭、幕府より武蔵国の目代にとりたてられ、入間・多摩13郷を支配した豪族だ。当初は秋川二宮館にいたが、大石信重の時、下恩方の案下道沿いの浄福寺城へ移転して多摩に根をはった。長禄2年(1458)11代大石顕重の時、案下道4-3.jpg多摩川と秋川の合流点に高月城を築城して移る。混沌とした戦国期にあって、大石氏は関東管領上杉氏の重臣として活躍した。16世紀に入ると小田原北条氏が関東の覇権を掌握するところとなり、大永元年(1521)第12代大石定重は自領防衛のため加住丘陵北端の要害の地に強大な滝山城を築いて城替えした。
 浄福寺を後にバス停「大久保」を過ぎると道は大きく右へカーブし、檜林の通りとなる。檜林を抜けると再び左へカーブし、右手に恩方中学が現れる。その右隣りの路地から裏手にまわるとそこに皎月院と称する小寺がある。曹洞宗の寺で山号を常円山と号す。心源院の隠居寺として創建されたという。その皎月院の参道入口に「ぐち聴き六地蔵」と称する面白い6地蔵がある。地蔵の背に立てかけた木板にこんな風に書かれていた。
「ぐちを言ってもいいだべ 泣いたっていいだべ 笑える時も来るさ 人間だもの」
 北浅川が再び街道に添うように流れる。バス停「佐戸」を過ぎると、川筋は北へ蛇行する。それに伴い街道は駒木野橋を渡って右岸に回り大きく北へ方向転換する。程なく駒木野の集落に入る。街道沿いに十軒ばかりの家が軒を並べている。どの民家も長い風雪に耐えてきた旧家で、しっとりと落ち着いた風情が実に味わい深い。
案下餅4-4.jpg 駒木野を過ぎると黒沼田に入る。そこに一刻芸術会館という山里にしては洒落た洋館作りの喫茶店がある。田中一刻という仏像彫刻家が、作品の展示に併設して喫茶店を営んでいるのだ。店内に沢山の美術品が並べられているのが見える。かつて一刻芸術館に立ち寄ったことがあるが、館内に入ると右の部屋が作品の展示場、左の部屋が喫茶室になっている。展示場の作品の素晴らしさは当然のことながら、喫茶室の調度品も素晴らしく、一杯のコーヒーで実に快適なひと時を過ごしたことを記憶している。なお田中一刻氏は既に平成8年に他界したと聞いている。
 一刻芸術会館を後にすると、右手に広々した田園風景が展開する。黒沼田橋で再び大きく蛇行してきた北浅川と出会う。橋を渡ると北浅川は案下道の左へ移る。程なくバス停「狐塚」に来る。狐塚と言えばあの天正18年(1590)の八王子城落城の折、炎上する本丸を脱出した城代家老の横地監物吉信のことが頭をよぎる。彼は同じ北条氏方の檜原城を目指して、詰めの城、富士見台を通って尾根伝いにこの狐塚辺りで案下道に出た後、高留まで進んで醍醐、市道山を経て檜原へ落ちたのかもしれない。
案下道4-5.jpg案下道4-6.jpg バス停のすぐ近くに右手北へ真直ぐ入る小道がある。この先200mばかり行った所の山腹にある興慶寺の参道だ。臨済宗南禅寺派の寺で山号を萬蔵山と号す。至徳元年(1384)八王寺山田の広園寺の令山和尚によって開山された。「夕焼け小焼け」の歌を作した詩人中村雨虹が「山のお寺の鐘がなる♪」と歌ったのは、この興慶寺の梵鐘の音ではなかったかと言われている。参道を進むと墓苑が現れる。墓苑の一角は綺麗な薔薇園になっている。墓苑の中の上り坂を登って行くと、程なく長い急坂の石段の案下餅4-7.jpg下に来る。石段を上りつめた所に山門があり、くぐると目の前が本堂だ。境内地は山腹のせいか狭い。境内の片隅に大きな番犬シェパードの檻があり、訪問者に吠えたてるから要注意だ。ところで「山のお寺の鐘」はというと、右手の庫裡を迂回して更に急坂を上った山の中腹に鐘楼がぽつんと建っている。梵鐘は元は宝暦2年(1752)鋳造のものであったが、先の戦争で供出となり、現在の梵鐘は復元されたものである。それにしても鐘楼からは遥か下方に望む恩方の谷筋に散らばる集落の風景は絵にも写真にもなる美しさだ。
 興慶寺を後にするとテニスコートがあらわれる。コートは何面もあり、時には若い人達で賑わい歓声が聞こえることがある。程なく街道は大きくS字状に曲がり力石の集落に入る。北浅川は街案下道4-7.jpg道にぴったり寄り沿う形となり大きく蛇行する。それとともに川原は広がり、広々した山里の風景が展開する。川岸には恩方ます釣場があり釣り人で賑わう。ます釣場の入口前は丁字路になっていて、北へ向う分岐道がある。小津・美山方面へ抜ける丘陵越えの道で小津坂が見える。もう何年も前のこと、丘陵向こうの小津集落から峠を越えてつづら折りの小津坂を下って恩方力石に出たことがある。その折小津坂から見た恩方力石の美しい風景に感動したことを思い出す。
   (この項つづく)

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