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論語 №110 [心の小径]

三四六 子のたまわく、臧武仲(ぞうぶちゅう)、防を以て魯において後を為さんことを求む。君を要せずと曰(い)うと雖(いえど)も、われは信ぜざるなり。

              法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「臧武仲が罪を得て魯の国を出奔(しゅっぽん)するとき、その領地の防に踏み止まって、そこから臧家の後継(あとつぎ)を立てていただきたいと請願し、もしそれを許してくだされば防をあけわたして他国へ立ちのきますと申し出た。そしてその請願が通ったので斉(せい)の国におもむいた。言葉は歎願的(たんがんてき)だったけれども、結局もし許されなければ防に立てこもって謀反を起すという勢いを示したのであって、主君を威嚇強迫したのではないと弁解しても、わしは信じない。」

 古註にも左のごとく説明してある。「武仲の邑(ゆう)はこれを君に受く。罪を得て出で奔(はし)る、すなわち後を立つるは君に在り、己の専らにするを得る所にあらず。而して邑に拠りて以て請う。その知を好んで(三四四)学を好まざるに由るなり。」

三四七 子のたまわく、晋の文公は譎(いつわ)りて正しからず、斉(せい)の桓公(かんこう)正しくして譎らず。

 孔子様がおっしゃるよう、「晋の文公も斉の桓公も、共に覇者すなわち諸侯の盟主となり、夷狄(いてき)を攘(はら)い周室を尊んだ大功があるが、文公は謀略が好んで正道によらず、桓公は正道を踏んで謀略を用いなかった。そこに両公の間の大きな相違がある。」

三四八 子路いわく、桓公、公子糾(きゅう)を殺す。召忽がこれに死し、管仲は死せず。いわく 未だ仁ならざるか。子のたまわく、桓公諸侯を九合(きゅうごう)するに兵車を以てせざりしは管仲の力なり。その仁に如(し)かんや、その仁に如かんや。

 「九合」の九は数ではなくて「糾」と同字。すなわち「糾合」。
 本文の事件を『春秋左氏伝』(荘子、八・九年)の記事によって抄録すると、「斉の襄公(じょうこう・僖公(きこう)の嫡子)無道なり。鮑淑牙(ほうしゅくが)公子小白(僖公の庶子)を奉じてキョに奔る。公孫無知(ぶち・僖公の母弟夷仲年(いちゅうねん)の子)襄公を弑(しい)するに及び、管夷吾(管仲)、召忽、公子糾(小白の庶兄)を奉じて魯に弄る。魯兵を以て子糾を納(い)る。この時小自すでに立つ。遂に与(とも)に戦い、魯兵大いに敗る。小白入る。これを桓公と為す。魯をして子糾を殺さしめ、管、召を請う。召忽これに死す。管仲囚(とら)われんことを請う。飽叔牙、桓公に言いて以て相と為す。」というのである。ただし糾と小白といずれが兄か、については異説があって、次密に引く古註は、小白が兄ということで立論している。

 子路が斉の桓公が公子組を殺したとき召忽は義を守って死し管仲は死せざるのみならず君の仇(あだ)の桓公に事(つか)えたのをその意を得ずとして「管仲は仁とは申せますまい。」とおたずねしたところ、孔子様がおっしゃるよう、「当時周の王室が衰えて諸侯服せず、夷狄侵入して中国危からんとした際、桓公が武力を用いず血を流さずして諸侯を連合させ、尊王嬢夷を実行して天下の人民を答堵休息させたのは、全く管仲輔佐の功績である。たとい公子組のために死ななかった小過失はあろうとも、天下を平らかにし万民を安んじた偉大な仁に誰が及ぼうや、誰がその仁に及ぼうや。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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