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渾斎随筆 №70 [文芸美術の森]

新潟だより                    

                    歌人  会津八一

 早稲田と新潟を結ぶ線の上に、大きく浮び上るのは、古いところでは、大先輩の市鴫春城さん、それにつづいて吉田東伍さん、それから、大學の職員ではなかつたが、市嶋さんとは兄弟のやうに親しく、政治家で、詩人で、能書家で、ことに護国寺畔の大隈老侯のお墓の底深く、遺骨とともに埋められてゐる、金属板の墓志銘を揮毫した坂口五峰さんが思ひ出される。そしてこの人の長男で、早大出身の獻吉君は、「新潟日報」の前社長として、稀に見る徳望家で、現に校友會の柱石でもある。その弟が、小説家の安吾君であるが、この人は早大には関係はない。
 市嶋、吉田、坂口といふところを下ると、相馬御風といふ順序であらう。この相馬については、前號に舊友たちが、いろいろ賑かに噂をしたばかりであるが、私も少し書く。
 私は相馬といっしょに明治三十九年に早稲田を出たものの一人であるが、年は私の方が二つ上であつた。
 同期のものが二人同じ越後に引っ込んでゐるといふので、毎日のやうに往乗して顔をつき合せて茶のみばなしでもやってゐるものと、東京の人たちは思ってゐるらしかったが、越後は随分廣い國で、たがひに三十里も離れてゐるので、そんなわけには行かない。私が東京で丸焼けになつて、越後へ帰つて五年になるけれども、一度こちらから訪ねたことがあるきりで、そのほかは、時折、手紙でたよりを交ほすぐらゐのことであった。
 その時も私が訪ねて行くと、いつも居間にしてゐるらしい二階から下りて来て、私の通されてゐる玄関わきの客間に現はれた彼は、全く白髪の老翁になり切ってゐるのに、年長の私の万でずゐぶんびつくりした。たがひに久方ぶりの封画で、むやみになつかしく、いろいろと話が盡きない。ずつと前に、私がまだ東京に居るうちに、ある日早稲田の校庭を歩いて詠んだ歌が十首あって、それをどこかの雑誌に出した。その中には
   ともにゐてまなびしともはふるさとに
   いまかおゆらんおのもおのもに
   たちいでてとやまがはらのしぼくさに
   かたりしともはありやあらずや
こんな風の感傷を述べたものだが、その時相馬はすぐ手紙をくれて、あの歌を、繰り返し讀んでさめざめと泣いたといって来た。この日も相馬は、初つから涙に頬を光らせてゐた。
 私はその日は御ひる頃に宿屋へ引き上げたが、またその翌日もやつて行つて、たあいもなく談り合った。そしていよいよ私の帰るといふ時になると、彼は門前まで出て、ハンケチを振りながら私を送ったものだ。
 先日私は平泉で津田左右吉さんを訪ねて、それから二人で仙臺へ出て、「河北新報」の主催で講演をして、東京を廻って国へ帰つた。ずゐぷん気をつけたつもりであったが、新潟へ帰つて少し目が経ってから、疲れが出て困った。それから間もなく新潟で、良寛没後百二十周年の記念として遺作展をやることになった。その會の顧問として安田靫彦、相馬御風、會津八一、三人の名を列ねることになってゐたので、私から相馬へ手紙を出して、その連絡のために四月の末に一人の青年を上げるから、よろしく頼むといってやった。私自身こまかなことは党えそ居ないけれども、その筆のついでに、仙臺での疲努がまだ抜け切らなくて因るとでも書いてやったものと見えて、相馬からの返事には、その疲弊をひどく気にかけたらしく、見舞の言葉があって、その後に、實は自分も近頃は、全くからだの調子が悪いから、人をよこすのは、五月になってからにしてほしいとあった。
 會期が迫ってゐるので、五月という月になるのを待ちかねるやうに、その青年は糸魚川に向つた。すると相馬の方では、その人の行くのを待ちかねてでもゐたらしく、その青年が、決してうかうかと、のんきに長坐をしたのでなく、いく度も暇乞ひをしかけても、押して引きとめるやうにして、相馬は大機嫌で、大好の良寛の話を、ものの三時間もたてつづけにやって、それから夜もだいぶ遅くなるので、その人は振り切るやうに宿屋へ引き上げると、間もなく二番中気が出て、十れで亡くなったのだといふ。
 見やうによると、私が人をやって相馬を殺したやうにもなる。けれども先日ほかで相馬の長男といふ人に邁つた時に、その事をいふと、父が一生をかけて、何よりも心を打ち込んでゐた良寛さまの話で、往生させていただきまして、内では皆が大満足。死顔もほんとににこやかでございましたといって、あべこべに禮をいってゐた。これでやうやくほつとした。
 その後、私は朝日新聞社にたのまれて、金澤大學へ講演に行った。その帰りに汽車は糸魚川を通ったけれども、私の方にも急ぎの用を控へてゐたので、下りられなかった。いづれゆっくり見舞って、記念碑でも出来るなら字でも書いてあげようと思ってゐる。
 この序に私自身のことを少し書くならば、私の古稀の覗賀のために、奈良と東京と新潟とで、同時に記念事業が進行して、早稲田では日本美術院同人の喜多武四砦の手で、私の大きなリリーフの宵像が出来、奈良では東大寺の中門のわきに、一丈あまりの大歌碑が出来、新潟では縣立圖書館の前庭に歌票一基、八月一日に除幕をやった。この前庭には数年前に有志の建てた良寛の筆で「一二三」「いろは」の六字を書いたものを、大きく引き伸した石碑が立ってゐる。この良寛さまの碑と左右に對立して、いささかまぶしいやうな気拝もあるが、もつと手短かに考へてみれば、年をとると、つまるところは、あちらにも、こちらにも、位牌のやうなものや、墓のやうなものを、人が造ってくれる。これも如何ともいたしがたいことだ。まぶしいどころか、だいぶ冷え冷えとした話だ。「古人今人流水ノ如シ」といふ句を、しみじみと味はれる年齢になったのに、今更ら気がつく。
 相馬と私との関係については、彼の訃音に接したとたんに一文を書いて、私の新聞ー!「新潟日報」に載せておいた。それも讀んでいただきたいものだ。
                       『早稲田學報』昭和二十五年九月


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