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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №47 [文芸美術の森]

                        葛飾北斎≪富岳三十六景≫シリーズ

                           美術ジャーナリスト 斎藤陽一

                   第13回 「五百らかん寺さざゑどう」

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≪帯状・格子状構成≫

 今回は、葛飾北斎「富嶽三十六景」中の「五百らかん寺さざゑどう」と、印象派の代表的画家モネが描いた絵「サン・タドレス~海辺のテラス」との近似性について、探ってみたいと思います。

 北斎が描いた五百羅漢寺は、江戸時代、亀戸(現在の江東区大島)にあった黄檗宗の寺です。この寺の境内には、内部が三層のらせん状構造を持った「さざゑ堂」があり、その最上階のテラスは眺望が良いことで知られていました。

 この絵には、テラスから遠くの富士山を眺める人々が描かれています。彼らの視線に導かれて、私たちの目も富士山に誘われます。

 また、テラスの床やお堂の壁、屋根のすべての線が、遠くの富士山に向かって収斂しています。ここには、西洋風の遠近法が使われていますね。北斎も、そのあとに登場した広重も、西洋の「線遠近法(透視画法)」を習得していました。

 さらに、本来なら、テラスから富士山との間には、家々や田圃、森と言ったものがあるはずですが、北斎は、そういったものはすべて省略、一面を墨色に塗り、あたかも水面が広がっているような帯状の層にしています。富士山を際立たせるためです。従来の日本絵画ならば、そこに「すやり霞」(No.44、第10回「隅田川関屋の里」を参照)を描くところでしょう。

 このように、この絵のすべてが、はるかに見える富士山を中核として構成されているのです。

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 もうひとつ、この絵には、独特の構図が潜んでいます。

 横に広がるテラスの層、墨色の“水面”のような層、空の層という三つの横の層による「三層構成」となっていることが分かります。「帯状の構成」と言ってもいいと思います。

 その上、欄干とお堂の壁にあるいくつもの格子の形に着目すれば、ここには「格子状の構成」も潜んでいます。

 また、この絵では、右側に大きな屋根を持つお堂が配され、左側にはそれに匹敵するような大きさをもったものが何も描かれていないため、左右がアンバランスとなっています。ここには、西洋美術が好む「左右相称(シンメトリー)」の美学に対して、日本美術が好む「アンバランスの美学」とも言うべき「左右非相称(アンチ・シンメトリー)」の構図も見られることにも留意しておきましょう。

≪モネの絵の近親性≫

47-3.jpg 次に、モネの絵を見ましょう。

 右の絵は、1886年、モネ26歳の時の作品「サン・タドレス~海辺のテラス」です。

 夏の光が降り注ぐ明るいテラスと海の風景を描いていて、いかにも「光の狩人」モネらしい絵です。ここには、この明るさと色彩の鮮やかさをもたらす「色彩分割」や「補色対比」といった印象主義の技法が使われているのですが、ここでは「構図」に注目してみたいと思います。

 下図をご覧ください。

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 この絵は、「テラス」と「海」と「空」の三つの層が水平に描かれ、はっきりと「三層の帯状構成」が読み取れます。

 それだけでなく、テラスの左右には、本来、このようなところにありそうもない旗のポールが2本描かれているため、このポールが作る垂直線と、三層の水平線とにより、画面は「格子状構成」にもなっている。北斎の「五百らかん寺さざゑどう」との近似性が見られますね。 

 モネのこの絵では、西洋風景画の鉄則とも言うべき、水平線(または地平線)の一点(「消点」)に向かってすべての線を収斂させていくという「線遠近法」は、意識的に外されています。

 モネは若い頃に日本の浮世絵に出会って強い感銘を受け、生涯を通じて浮世絵を収集しました。それどころか、浮世絵は、彼がそれまでにない新しい絵画を生み出すための重要な触媒になったのです。

 モネが、北斎の「五百らかん寺さざゑどう」を実際に見ていたかどうかは分かりませんが、「海辺のテラス」というモネの絵を見ると、若き彼が、西洋とは異なるさまざまな特質を持つ浮世絵に触発されて、西洋絵画の伝統の呪縛から脱しようとしていることが感じられるのです。

≪江戸の富士講ブーム≫

 もう一度、北斎の「五百らかん寺さざゑどう」に戻ると、そのテラスには、裕福そうな商家の旦那、侠客風の男とその子分、粋な姉さん、子ども連れのおかみさん、風呂敷を背負った男などが描かれ、すべての視線が富士山に向かっています。言うまでもなく、富士山は単に日本一高い山というだけでなく、はるかな昔から、日本人の心の山であり、聖なる山であり続けました。

 当時、江戸では、霊峰富士を信仰する「冨士講」が流行っていました。文政末期には、江戸市中に約300もの富士講が出来ていた、と言われます。

富士講というのは、参加者がお金を積み立て、毎年順番で富士山に登るという「信仰登山」の仕組みです。年配者や女性、子ども、体の弱い人など、登ることが出来ない人たちのためには、近くに富士山の形に似せた小山を築きました。これが「富士塚」ですね。

 このような状況の中で、「富嶽三十六景」は刊行されたのです。そして、版元のねらいどおり、このシリーズは大評判となりました。

 次回は、北斎の「富嶽三十六景」の締めの作品とも言うべき「諸人登山」を紹介します。

                                                             


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