SSブログ

雑記帳2020-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2020-12-1
◆江戸城外堀巡り3回目は溜池山王から四谷まで。圧巻はホテルニューオータニでした。

地下鉄銀座線溜池山王池に建つ山王パークタワーは現在NTTdocomoの本社がはいっています。この場所にはかって山王ホテルがあり、昭和11年(1936)に怒った二・二六事件では、反乱軍の司令部がおかれていました。赤坂周辺をあるく今回のコースはあちこちに二・二六事件の跡をたどることになりました。
山王パークタワーの正面は首相官邸です。

山王パークタワー のコピー.jpg
山王パークタワー

慶長11年(1606)、生活用水を確保するために、自然の川をせき止めて人口の池が造られました。 溜池は江戸時代を通じて上水の水源として利用されていましたが、昭和初期に暗渠化され、姿を消しました。
溜池の水が枯れないように堤が築かれ、堤を強化するために桐畑がありました。
桐畑の跡には料亭が並び、最盛期には60店舗ほどあったそうです。

為池跡 のコピー.jpg
足の下は溜池だった
赤坂料亭つる中 のコピー.jpg
今も残る数少ない料亭の一つ「つる中」

赤坂に縁の深い人物と言えば勝海舟です。
江戸時代後期から明治にかけて、3回にわたり赤坂に住んでいます。
結婚して最初に住居をかまえたのが今のTBSの近く、ここから溜池にあった福岡黒田藩の屋敷に足繁く通って蘭学を学びました。

四方(酒屋) のコピー.jpg
海舟の旧居のあった通りにある「四方」は寛永元年創業の、東京でもっとも古い酒屋

二番目に住んだのが氷川神社の隣です。今は小さなマンションの建つ勝海舟住居跡から本氷川坂をのぼっていくと氷川神社にたどり着きます。
氷川神社は紀伊和歌山藩徳川家の産土神だった神社です。もともとは赤坂見付駅近くにあったものを、享保15年(1730)、徳川吉宗によって現在地に移転、建て直されました。
度重なる火災や空襲で多くの神社仏閣が建立時の建物を失う中で、氷川神社の本殿は戦火を逃れ、東京都の有形文化財に指定されています。
本殿は質素なつくりながら、8対もある狛犬(中にはユーモラスなものも)、樹齢400年の大銀杏や包丁塚など興味深く、境内の西行稲荷や四合(しあわせ)稲荷は海舟が命名しました。

氷川神社本殿 のコピー.jpg
氷川神社本殿
氷川神社大銀杏 のコピー.jpg
境内のイチョウは樹齢400年を超える。

維新後はいったん静岡に移りましたが、明治政府に呼び戻されて現在の氷川小学校跡に住みました。2000坪もある広大な敷地だったそうです。
その一部、400坪の土地に教会が建ちました。
生活に困窮していたアメリカ人伝道師のホイットニー一家を支援して、海舟が敷地の一部を提供、一時は病院も経営していました。今は礼拝堂のあとに小さな教会のみ。海舟の嫡男梅太郎はウィリス・ホイットニーの妹クララと結婚しました。

赤坂教会 のコピー.jpg
赤坂教会

TBSは坂の上。新しい愛称の赤坂サカス(AKASAKASAKAS)は右から読んでも左から読んでもサカサカサカ。それほど坂の多いことを表しています。商店街には歴史のある店舗も残っています。
赤坂田町は町が出来る前は田がひろがっていたことが名の由来です。江戸時代から溜池に面して景観を売りにする飲食店が多かったことが、明治以降に赤坂の花街へと発展したのです。

外堀通り沿いには高級ホテルが多く、そのうちの一つ、ホテルニュージャパンでは、昭和57年(1982)に33人の死者を出す、日本最大のホテル火災が起きました。
ここも二・二六事件のおり、部隊が立ち寄った料亭の跡地でした。
火災後は暫く放置されていた時期もありましたが、現在はプレデンシャル生命保険の社屋ビルとして、オフィスや外国人の高級賃貸住宅を有するプレデンシャルタワーとなっています。

ホテルニュージャパン跡 のコピー.jpg
プレデンシャルタワー

通りをさらに進むと赤坂見附交差点。頭の上では高速道路も交差しています。
堀に架かる弁慶橋は江戸時代、岩本町にあった橋が、なかなか立派だったので、明治になって解体したその部材を利用して駆けた橋です。大工の棟梁の名前がそのまま残っているのです。

弁慶橋2 のコピー.jpg
弁慶橋

弁慶橋を渡れば紀尾井町。堀の内にはいります。
地名はかってこの地にあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷に由来しており(それぞれ紀州家、尾張家、井伊家と呼ばれた)、各家の文字を1文字ずつとって町名としました。多くの著名人も住んだ所ですが、現在はホテルやレストラン、企業の本社社屋が並んで、一般住宅はほとんど見られなくなりました。

赤坂を歩いてきてちょうど2時間。お昼は今人気のレストラン「Aux Bacchanalesオー・バカナル紀尾井町」でいただきました。老舗料亭「福田屋」の、通りをはさんで建つ同店は、特にテラス席は予約がとれないほどの人気だということです。

オーバカナル2 のコピー.jpg
オーバカナルのテラスはいつも予約でいっぱい

紀州徳川家の中屋敷跡は現在、ガーデンテラス紀尾井町と清水谷公園になっています。
ガーデンテラス紀尾井町は旧赤坂プリンスホテル。新装なったホテルの庭内にはかっての赤プリ、赤坂クラシックハウスも移されています。
ここは、大韓帝国李王家に生まれ、最後の皇帝・純宗の皇太子になりながら、日韓併合の歴史の波にもまれて数奇な運命を辿った李垠と妻方子の暮らした邸です。もとはジョサイア・コンドルが設計した北白川宮邸でした。美しい外観は、建設当時の煉瓦も残された数少ない遺構としても見る価値があります。

赤坂御門 のコピー.jpg
赤坂御門の石垣 通りの向いは議員宿舎
赤プリクラシックハウス のコピー.jpg
赤坂クラシックハウス

ガーデンテラスに隣接する清水谷公園も紀伊徳川家の屋敷内にありました。今は千代田区の区立公園になっています。谷に湧水があったことから清水谷の名が付きました。(現在は枯れています。)
近くに住んでいた大久保利光が暗殺された(紀尾井坂の変)場所として有名ですが、崖を利用した林や池はなかなか見ごたえがあります。大久保利光の碑とともに、玉川上水の石管が展示されているのも面白いです。

清水谷公園3 のコピー.jpg
大久保利通の碑
                    
紀州徳川家邸に隣接していたのが彦根井伊家の屋敷でした。
元は加藤清正の下屋敷でしたが、清正の死後、加藤家は改易となり、屋敷跡は彦根井伊家に与えられました。明治以後は伏見宮邸、第二次大戦後はホテル・ニューオータニとなりました。
丹下健三設計によるニューオータニと言えば高台の廻るラウンジで知られます。そのラウンジから見下ろす庭園が見事。清正時代から変わることなく、そのままうけつがれているのです。
大戦後、GHQに接収されましたが、戦時中「鉄鋼王」と呼ばれていた大谷米太郎が私財を投げうって土地を購入、オリンピックの年にホテルが誕生しました。庭園は残されたのです。(国技館建設の勘定元にもなったこの人の一生は波乱万丈です。)
大木の化石や赤玉石、カヤやイヌマキの大木、それぞれが歴史を持つ数多くの塔や灯篭・・・、高低差のある広い庭を見て回るだけでゆうに30分はかかります。数ある大名庭園の中でも屈指といえるでしょう。

ニューオオタニ庭4 のコピー.jpg
庭の一部
ニューオオタニ赤玉石2 のコピー.jpg
巨大な赤玉石も無造作に庭に転がっている

紀尾井町の最後に残るは尾張徳川屋敷跡です。ここは今、上智大学になっています。
紀尾井坂の名前も紀伊徳川、尾張徳川 井伊家の屋敷に囲まれていたことが由来です。
紀尾井坂を下って迎賓館通用門に向かう途中に喰違見付がありました。
外堀の城門の一つで、冠木門があるだけの簡素な門でした。明治7年に岩倉具視暗殺事件がおきています。大久保利光が暗殺された場所のすぐ近くです。
迎賓館通用門は紀伊徳川屋敷が一部が解体された時の部材で建てられました。

喰違木戸跡 のコピー.jpg
喰違木戸跡の説明板

喰違見付からは、左右に上智大学のキャンパスを見ながら外堀の土塁を歩けばJR四谷駅に出ます。
外堀の造営に真田親子が加わっていたので真田彫と呼ばれた堀は、瓦礫処理の為埋め立てられて今は上智大学のグランドです。

土塁から線路をみおろしながら四谷駅に近づくころ、御所隧道と呼ばれる煉瓦造りのトンネルが見えます。明治27年(1895)に造られました。当時甲武鉄道が建設した4ッのトンネルのうち、唯一現存するものです。

四ツ谷駅2 のコピー.jpg
土塁から見下ろす四谷駅付近

本日のゴール、四谷駅の前を通る国道20号線は江戸時代の甲州街道です。日本橋を発して江戸城内堀の南側を回り、半蔵門から西へと向かう街道でした。四谷門を出た後、八王子や甲府を経て中山道に合流します。
甲州街道は尾根道なので、外堀の最高地点は四谷門付近でした。

四谷門 のコピー.jpg
四谷駅から見た四谷門の石垣

半蔵門から始まる甲州街道の両側にある江戸時代の町人地は麹町と呼ばれました。今もこの町名がのこっています。
四谷駅周辺では四谷門や見付橋の石垣を見ることが出来ます。
赤坂から四谷への史跡めぐりは、幕末から明治にかけての思いのつまったコースでした。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。