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いつか空が晴れる №96 [雑木林の四季]

  いつか空が晴れる
    -ラウンド・アバウト・ミッドナイト~マイルス・デイヴィス~

               澁澤京子

 プラザの後にできた渋谷駅前の高層ビル(フクラス)にはブティックと和の食材(品揃えが少ない)を扱う小奇麗な店が入っていていつもその横を素通りするだけ。昔の東急プラザは、渋谷の若者の熱気から追い出された中高年の叔父さんやおばさんの憩いの場所になっていた。プラザの前にはよくプラカードを掲げた男の人が立っていたのが懐かしい。買い物の帰り、買い忘れに気がついても地下の食料品市場に寄って野菜や魚、肉を買うことができた。古いビルなので年配向けのブティックが多く、お婆さんが試着室から出てきて「どうかしら?」と鏡の前に立つ、痩せた年配の女性店員が「まあ!お似合いですわ!」と褒める、そうしたほのぼのとした光景も時折見られた。五階の紀伊国屋で本の立ち読みをして二階にはフランセという古くからある喫茶店が入っていたのでそこで一人で珈琲を飲んだ。ピロシキが食べたくなれば最上階のロゴスキーでピロシキや冷凍のペルメニを買って帰ることもできたし、プラザの入り口はよく友人との待ち合わせ場所にしていた。
昔の東急プラザは生活感の漂う、主婦には居心地のいいビルだった・・・

駅の裏側ではまた再開発のための大工事が始まっているけど、渋谷近辺に居住する生活者の目線で少し考えてくれないものだろうか?

コルビュジェ的な都市開発を批判したのは、ジェイン・ジェイコブズ。『アメリカ大都市の死と生』では、スラムを一掃して整然とした住宅街や公園を作ったために逆に治安が悪くなった例や、整備された公園や図書館のあるような都市近郊の新興住宅街のほうが、古くからある密集したスラム街より治安が悪くなっているとか(少年凶悪犯罪は死角の多い地域で頻発する)、ほとんど人のいないニューヨークやボストンの小さな公園で少年犯罪が多発しているなど、都市の再開発によって死角が増え(地下鉄なども含まれる)スラムのような古くからの地域コミュニティが壊されていくことにより犯罪発生率も増加していることを女性らしい視点で書いている。

外観、形だけきれいに整えれば、社会や家族に奇跡が起こると考えるのは自己欺瞞であるのだ、と。(ラインハルト・ニーバーはこの自己欺瞞を『煉瓦による救済ドクトリン』と呼んでいるらしい)
彼女は都市の多様性と活性化のために、古い建物を残すなどのいくつかの提言をしていて、彼女の批判のいくつかは今の日本の状況にそのままあてはまることが多い。これが書かれたのは1950年代。ちょうど東京は東京オリンピックに向けて、惨めな貧しい部分を排除して、都市の外観をきれいにしようと躍起になってはりきっていた頃。都市の再開発によって多様性が失われていくニューヨークやボストンほど、まだ東京は都会として成熟していなかったのだ。

・・若い時、読もうと思って読まなかった小説がある。カーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』確か新潮文庫で出ていて、いつの間にか消えてしまったけど、最近村上春樹の新訳で出ているので読んでみた。はっきり言ってすごい・・・今年読んだ中で最も感動した小説かもしれない。

舞台はアメリカ南部の貧しい街。街には川が流れていて川沿いには工場が立ち並ぶ。街の一角には「ニューヨークカフェ」という終夜営業のレストランがあり、そこに集まってくるのは聾唖の彫金師、人種差別と闘う黒人医師、社会運動に挫折したアナーキスト、作曲家を夢見る少女、ファシズムと戦うことを夢見るユダヤ少年、そしてカフェの主人が織りなす人間ドラマなのだけど、皆それぞれ家族にも誰にも理解されない悩みを抱えて生きている。彼等が唯一心を許して語りかけるのは静かな聾唖の彫金師シンガーさん。人の話をじっと黙って受け止めてくれるシンガーさんを中心にしてこの物語は始まる。

もしも若い時の私がこれを読んでも、たぶん今ほど切実にこの小説はわからなかっただろうと思う。それは私が孤独を感じるほどの悩みを抱えた大人じゃなかったからでも、家族と一緒に生活していたからでもない・・

「・・その白人の顔をしげしげと観察した。その瞳の奥に、ゆるぎなき異様な狂気が隠されていることを見て取れたからだ。」~『心は孤独な狩人』

カポーティの小説にもある、その底に狂気を秘めたような孤独、未来の閉ざされた閉塞感と救いようのない孤独が、私が若いころの日本の社会にはそれほど蔓延してなかったからだと思う。まだ未来というものを皆は信じていたし、今の様な閉塞感はなかった。そして友達はいても本当の悩みを打ち明けられるような親身な友人を持っている人も、今の時代のほうが少ないんじゃないかと思う。つまり、シンガーさんのように黙って人の話を聴き、そして理解して受け止めようとする人がきわめて少ない・・、本が売れなくなっているのもそれと関係あるかもしれない。長文を読むというのは他人の話をじっと黙って聞いて理解しようとすることに似ているからだ。それだけ人々に、他人を受け入れる心のゆとりと、他人を理解しようとする能力がなくなってきたのだと思う。他人を受容するのは、愛だろう。

1930年代のアメリカ社会にすでにあった貧富の格差も孤独もコミュニケーションの齟齬も絶望感も、1950年代のジェイコブズが指摘する子供による犯罪や殺人も、今の日本では普通の社会現象となっている。

この1940年に書かれた小説には、すでに大企業が独占する資本主義の行きづまりと資本主義の持つ闇の部分、底辺の人々の無力感も、格差社会も、解決されない人種差別の問題もすべてが詰まっていて、人種差別と闘う黒人医師と挫折したアナーキストとの議論は、ドストエフスキーの「大審問官」に匹敵する迫力。結局、黒人医師もアナーキストも目指している方向は同じなのに、和解できずに対立して平行線をたどることになる。
そして、なんといってもこの小説をたった23歳の女の子が書いたことに私は衝撃を受けました・・
黒人や低所得層の人々の絶望と苦しみに寄り添って彼等の苦しみを訴えるマッカラーズは中産階級の裕福な家庭で育った女の子。彼等の苦しみはマッカラーズの苦しみでもあるのであって、世の中の理不尽や苦しみに耐えられないような想像力と、繊細な神経を持った女の子だったのだろう。そして何と言っても彼女は、他人の心を黙って聴くことができる「愛の人」だったのだ。

孤独な彼等をまとめていたのは聾唖のシンガーさんで、シンガーさんが消えると共に人々はまたバラバラになっていく。
小説最後に出てくる真夜中の「ニューヨークカフェ」の情景はマイルス・デイヴィスの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」みたい。何というラストシーンだろう。
この小説を読み終わった後、まるで素晴らしい音楽を聴いたあとのような感じになるのは、カーソン・マッカラーズがもともとピアノの才能があって最初はピアニストを目指していたせいもあるのかもしれない。

アリゾナ州のセドナで、私の従妹が老後を過ごしているけど隣人同士の助け合いがとても活発らしい。誰かが病気をすれば誰かが食事を差し入れたり、代わりに買い物に行ったり。個人主義の先進国である欧米のほうが、かえってそうした隣人との交流と助け合いというものは発達しているのかもしれない。老後おひとり様の私には、欧米でのそうした老人の隣人同士の助け合いが盛んな話を聞くとうらやましい限り。

翻って日本はどうかというと、家族だけの内向きの閉鎖的な社会。隣人には他人としてまるで無関心になるか、あるいは逆に地方のように、過剰な干渉と他人を詮索して文句をつけるような閉鎖的な人間関係になるかの両極端ではないだろうか。突っぱねて一人か、御互いに監視するようなうっとうしい関係になるか。かつての日本には、宮澤賢治の「雨ニモマケズ・・」に出てくるような、無私・無償で困っている人や全体のために黙々と働くような人間がもっとたくさんいたのじゃないかと思うのだけど。本当の信頼関係があるところにはギブアンドテイク(交渉・交換)は起こらないだろう。

今、孤独死や自殺が問題になっている豊かな国日本。優しいようでその実は他人に無関心で冷たいところのある日本。コロナは、人間関係や共同体のあり方について見直しするのにちょうどいい機会なのかもしれない。




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