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論語 №109 [心の小径]

三四四 子路、成人を問う。子のたまわく、藏武仲(ぞうぶちゅう)の知、公綽(こうしゃく)の不欲、卞荘子(べんそうし)の勇、冉求(せんきゅう)の嚢のごとくにして、これを文(かざ)るに礼楽(れいがく)を此てせば、亦以て成人と為すペし。のたまわく、今の成人とは、何ぞ必ずしも然らん。利を見ては義を思い、危きを見ては命を助け、久要平生の言を忘れずんば、亦以て成人と為すべし。

                法学者  穂積重遠

 「藏武仲]は魯の太夫、名は「キツ」、小男で知的だっという。卞荘子は魯の卞邑(へんゆう)の大夫、虎を刺したので有名。冉求については前に「求や芸(一二五)とある。後段は子路の言葉だとする説があるが、やはり孔子様の言葉で、いったん話を切って再び言われた意味で「のたまわく」がはさんであるのだ。

 子路が、成人すなわち完成された人格者とは何か、をおたずねしたら、孔子様が、「藏武仲の才智と、孟公綽の無欲と、冉求の多芸とを兼ね、これをきりもりするのに礼を以てし、これをやわらげるのに楽をもってしたならば.正に成人といえよう。」と語られたが、更に言葉をあらためておっしゃるよう、「今の乱世では、そこまでの成人は望めぬかも知れぬ。利得問題に当ってはそれを取るが義か取らざるが義かを思い、君国の危急に際しては一命を投げ出し、古い約束や平生の言葉を忘れずに実行する、そういう人物ならばまずまず成人といってよかろう。」

 前段について、古註には「言う心は、上四人の才智を備有し、又すべからく、礼楽を加えて以てこれを文飾すべきなり。」とあるが、伊藤仁斎はこれに反対して、「四子の長のごときは、皆以て世に立ち名を成すに足る。而してまた礼楽を以てこれを文り、すなわち偏(かたよ)れるを救い欠けたるを補う。以て成人の名に当るに足る。旧註に以て四子の長を兼ぬと謂うは非なり。これけだし聖の能くせざる所、あにこれを学者に望むぺけんや。」と言い、荻生徂徠もこれに賛成している。しかしそれではかえって「今の成人」より軽くなりそうだから、やはり旧説の方がよいと思う。「平生の言」を「古い約束をした当時の言葉」と解するのが通説だが、前記の方がわかりよいと思って、自己流を立てた。

三四五 子、公叔文子を公明賈(こうめいか)に問う。のたまわく、信なるか、夫子言わず笑わず取らざるか。公明賈対(こた)えていわく、以て告ぐる者の過(あやま)てるなり。夫子時ありて然る後に言う。人その言うことを厭わず。楽しみて然る後に笑う。人その笑うことを厭わず。義ありて然る後に取る。人その取ることを厭わず。子のたまわく、それ然り、あにそれ然らんや。

 「公叔文子」は衛(えい)の太夫、公孫抜(こうそんばつ)。「公明賈」も衛の人。

 孔子様が公叔文子の事を公孫賈にたずねて、「本当ですか、太夫殿は、言わない、笑わない、取らない、というのは。」と言われたら、公孫賈が、「それはうわさした者のまちがいであります。公叔文子も言ったり笑ったり取ったりしますが、言うべき時に言うから人がその言ったことに気がつかないのです。心から楽しく思って笑うから人がその笑ったことに気がつかないのです。取る義理のある時に取るから人がその取ったことに気がつかないのです。」と答えた。孔子様が感服しておっしゃるよう、「なるほどそのとおりだろう、どうしてうわさどおりであろうぞ。」

 「それ然り、あにそれ然らんや」は、今日では「ほんとにそうかね」というくらいのうたがいないしひやかしに用いられる。本章でも「そのとおりなら大したものだが、どうもそうではあるまい。」という意味に解するのが通説のようだ。しかし公孫賈がせっかく名答をしたのを、うたがいひやかすのは孔子様らしくない故、前記のごとく解する説を採った。

『新訳論語』 講談社学術文庫
                                                   


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