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渾斎随筆 №69 [文芸美術の森]

 古建築の火災                 

                歌人  会津八一

 法隆寺が焼けてまだ日が浅いのに、金閣寺が焼けたといふ。何といったものか、私はたまらない気特だ。
 法隆寺の前に、まだ戦争のさい中であったが、同じ奈良懸で法隆寺にすぐ近い法輪寺といふ寺の三重の塔が焼けた。これは一般の人たちにはあまり知られずにしまったが、この塔などもこれを見る學者によつて時代の認定がいくらか達ふにしても、どのみち日本では一番古い時代の様式を持つものであったのに落雷のために、たつた二時間のうちに焼け落ちたといふ。その時、そのありさまを見て来たといふ人が、それから眞直ぐに東京の私の宅にやって来て、大聾を上げて泣きながら、そのありさまを報告した。この塔のことを私が研究して論文に書いたりしたことがあつたからだ。けれども、私は泣けなかつた。あまり悲しくて泣いてはゐられなかつたのだ。
 こんな調子に矢つぎ早に焼かれては、もともとあまりたくさんも無い日本の古建築は、遠からぬうちに、一つも無くなるにちがひない。その火もとを査べると、やれ避雷針がとりつけて無かつたとか、電気座布園がよくなかつたとか、火災報知機が不完全であつたとか、または、坊さんの一人が気ちがひであつたとか、そんな査べが何所まで進んでも焼けた建物はもとへ返らない。つまるところは日本人がかうした国賓ものの貴さを、まだよく理解がとどいてゐないから起つたことだ。原因は国民の不心得より外にもとめられない。
 いつか、何かの機會に私が云ったやうに、日本人は、とかく國自慢をしたがる。そして美術國だ美術國だといひ立てるが、遠い先租の作って遺してくれたものを、自分の手柄にして自慢するばかりで、なかなかそれ以上のものを作り出すだけの働きを見せない。そしてその遣物を自慢にはするが、それほそ大切にもしてゐない。そのくせ急にそれが無くなると大へんにくやしがるけれども、それほど常の日には大切にしてゐない。先租ほどに偉らくない子孫、いつも先租を笠に着る子孫といふ姿だ。
 日本で古美術の中心として誰しも指を折るのは京都や、奈良や、日光や、鎌倉であるが、あの烈しい大戦争の間にも、アメリカの飛行機は、どう間違っても一つの焼夷弾もそこらへは落さなかった。日本の古美術であるから、焼くときには日本人の手で焼かなければならないと思ってゐるなら、大變のことだ。
 今朝も、東京のある美術笠からアンケェトで、近頃の金づまりのためにとかく古美術が海外へ流れ出る。それについての感想を問ふのであつたが、私はこれに答へた。出来ることなら海外へは出したくないものだが國内に引きとめておいても先租の遺産を死蔵するだけで、ろくろく保存も出来ぬといつたありさまならば、いつそのこと手放して送り出してもその物のためにはかへつていいかも知れない。しかし書畫や彫刻などとちがつて、建物を海外へ持ち出すといふことは少しむつかしいが、解きほどいて、材木にして、詳細な圖面を附けておけば持ち出してから組み立てられねことはない。片っ端から焼いて灰にしてしまつたのでは何のためにもならない。
 世間には、ともすると法隆寺あたりの建築は、どこの隅々までも、創立の時のそのままの材木で組み立てられてゐるものだと信じ切ってゐる人が多い。しかし實際はそんなものでない。遠い昔から今に至るまでの間に折々の修繕に、材木は次第に取り換へられて、創建の時のままの材木はほんとに少い。いつまでも同じ所に立ちながら、弱ったところから少しつつ若返ってゆくといふことは木造建築の一つの強みでもある。もし周密な、正確な實測圖が出来て居れば一たん焼けてしまっても翌日から、もとのままの再建にかかることも出来るといふものだ。けれども今の日本の古建築には、焼いてしまっても安心して再建に頼りかかれるほどの實測圖が備はってゐるものはいくらも無いであらう。
 法輪寺の塔なども、それが無かったために、焼けつばなしになってゐる。もし日本の古い建築物をいつまでもこの國土の上に立てておきたいなら、かうした方へも充分に行きとどいた用意をしてもらひたいものだ。もちろん莫大な金はかかるであらうが、そんなことをけちけちしてはゐられない。
               『新潟日報』夕刊昭和二十五年七月四日

『会津八一全集』 中央公論社


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