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雑記帳2020-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-11-15
◆東京の名湧水を巡って国分寺崖線を歩きました。

東京で暮らすようになって気になったのが「国分寺崖線」という名前です。高校の地理では段丘は習ったけれども、「崖線」という言葉はなかった。パソコンを使い始めた頃「がいせん」を変換しようとしても出来ないので、「がけせん」と入れて変換する、そんな時を経て、東京独特の国分寺崖線が次第に身近になっていったのでした。

武蔵野台地は日本有数の洪積台地で、多摩川が造り出した扇状地です。
地盤の隆起や、箱根と富士山の火山灰の降り積もるなか、多摩川は南方に移動しながら側面を削って段丘面を造っていきました。その結果生まれた、東西に長い崖が続く地形が国分寺崖線で、約3万年前に形成されたといわれています。立川(武蔵村山の説もある)を起点とし、世田谷の等々力渓谷や大田区の田園調布あたりまでつづく、約30kmの崖線です。
立川には立川崖線(青梅が起点、狛江まで40km)や青柳崖線も走っていて、いずれも国分寺崖線より南に位置しているので、多摩川が蛇行した跡がよくわかります。立川崖線が形成されたのは2万年前だということです。
水の便に恵まれて日当たりの良い段丘面は、数千年もの昔から人が住むには絶好の場所でした。

崖線は「ハケ」とも呼ばれて、随所に湧水がでるスポットがあります。
JR中央線に沿って、国分寺から小金井まで歩いてみると、東京名湧水57選として知られる池をいくつも見つけました。昔は今より水量も多く、ワサビ田が広がり、蛍が舞っていたそうです。また、このあたりは明治末期から昭和初期に数多くの別荘が建てられたところでもありました。

先ず立ち寄ったのは国分寺駅南口にある殿ヶ谷戸庭園です。

殿ケ谷戸庭園3 のコピー.jpg
殿ケ谷戸庭園展示室 のコピー.jpg
本館

大正期に、旧満鉄副総裁の江口定條(じょうえ)がこの地に別荘を構え「随宜園(ずいぎえん)」となづけました。昭和初期には三菱財閥岩崎彦彌太(ひこやた)が買い取り、高低差のある地形を生かして、現在のような回遊式庭園を完成させました。
庭園の中心にある次郎弁天池は東京の名湧水57選のひとつ、数寄屋造りの茶室、紅葉亭からは、池やモミジの林が見下ろす事ができます。

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紅葉邸から見下ろす弁天池

弁天池に通じる竹の小路は東京の庭園には珍しい孟宗竹の竹林です。

殿ケ谷戸庭園竹林 のコピー.jpg
竹の小路脇の竹林

昭和初期に建てられた本館は和洋折衷の造りで、食堂は今展示室になっています。

昭和40年代の宅地開発計画に反対して保全を求める住民運動が起こり、昭和49年に東京都が買収、整備して都立の庭園として開放されています。平成23年には「殿ヶ谷戸庭園(随宜園)」として国の名勝に指定されました。

庭園を出てバス通りを進むとほどなく左前方にこんもりとした森がみえてきます。JRの電車の窓からも見える東京経済大学です。
創設者の大倉喜八郎はホテルオークラや大成建設を造った人です。大倉商業学校を前身とする東京経済大学の、崖線の地形を利用した広大なキャンパスの中にも、東京の名湧水57選の湧水池があります。元学長の名前に由来するという新次郎池です。
あいにくとコロナのために部外者はキャンパス内に入れず、外から塀越しに見ることが出来ただけでした。

新次郎池 のコピー.jpg
新次郎池

国分寺崖線は西に行くほど高低差がなくなります。世田谷で20m、国分寺では10m、立川に至ってはほとんど高低差はありません。そんな中にあって、小金井あたりは坂が多いのが特徴です。
東経大の横を通るくらぼね坂の斜度8パーセントに始まり、斜度10パーセントの三楽坂、14%のさわらび坂など、小金井市には数多くの坂があります。

坂5 のコピー.jpg

新次郎池から出る湧水は多摩川の支流の野川に注ぎます。
くらぼね坂をくだったところにある鞍尾根橋はちょうど国分寺市と小金井市の市境になっています。
野川は改修されて、カモやシラサギのいる憩いの水辺になっていますが、近くには昔の野川の流れに沿った湧水の道が整備されています。この湧水の道をたどると、ほどなく貫井神社に出ます。

貫井神社は元は貫井弁財天と称し、武蔵野段丘のふもとの景勝の地に鎮座して、貫井部落の氏神として崇拝されていました。明治の寺社離政策のより当地に移りました。
境内には、これも東京の名湧水57選に選ばれた清水の池があります。また、縄文土器を中心に貫井遺跡が付近各所より、多数出土することから、早い時期から集落があったことがわかります。

本殿西側から湧き出るる水量は今も豊かです。湧水スポットは本殿裏にもありますが、こちらは水量が多くない時は枯れることもあるそうです。
大正時代には神社の下に湧水を利用したプールがあったそうですが、湧水の温度は真夏でも摂氏15度。冷たくて長時間はプールにいられなかったでしょう。現在は駐車場になっています。
貫井の名も小金井の名も井を持っているのは、昔から水に恵まれた地であることを意味しているのです。

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貫井神社本殿
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湧水の池 亀が数匹甲羅干しをしていた
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神社の湧水口

貫井神社をでて道なりに10分ほど歩いて、弁車の坂(江戸時代に弁次郎が営んでいた水車が坂下にあった)を登ればバス通りです。ここから小金井駅まで歩いても10分もかかりません。
都立小金井工業高校のバス停すぐのところにあるのは「滄浪泉園(そうろうせんえん)」です。

滄浪泉園2 のコピー.jpg

ここは明治・大正期に銀行家、外交官、政治家として活躍した波多野承五郎の別荘でした。受付でもらった案内によると、友人、犬養毅が名づけたという庭庭の名前は、「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」という意味だそうです。
かっては現在よりも敷地も広く、湧き水も水車がまわるほどの量がありました。(坂の名に名残がある)宅地開発により敷地は徐々に縮小、マンション建設の計画もある中で、住民運動の結果、昭和52年に東京都が買い取りました。買収直前に長屋門や邸宅は取り壊されたため、庭園としてではなく、緑地保全地域に指定されています。池はもちろん東京の名湧水57選の一つ。
縮小されたとはいえ12,000平方メートルの園内は今でも武蔵野の面影を十分にとどめ、うっそうとした樹林や野鳥の声には深山の趣があります。今でもはけの生態系を保っている貴重な場所です。

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木の間越しに見る湧水の池
滄浪泉園湧水源 のコピー.jpg
湧きだす水は澄んでいて寮もたっぷり

殿ヶ谷戸庭園から滄浪泉園まで約1時間。
ここからは薬師通りを通って、はけの道沿いにある美術の森まで足を延ばしてみませんか。此処には「はけの森美術館」があるのです。「はけの森美術館」は、以前知の木々舎にも連載した画家・中村研一のアトリエでした。
訪れたこの日、美術館では作品展「ふたたびの北京官話~中村研一が描く人体のフォルム」を開催中でした。

森の中には小さいながら池があり、これも東京の名湧水57選のひとつです。その脇に画家の愛した数寄屋造りの茶室「花侵庵(かしんあん)」が建っています。
池の背後には竹林に包まれたハケが続いていて、石の階段を上ってハケ上に出ると、裏口には小さな木戸が設けられています。この緑地は貫井神社とともに大岡昇平の「武蔵野夫人」の舞台になりました。

はけの森茶室 のコピー.jpg
茶室「花侵庵」
はけの森池 のコピー.jpg
池の向うに見えるのは中村健一の旧主屋
はけの森木戸 のコピー.jpg
はけの森の木度

美術館の前には小金井市が整備した「はけの小路」がのぞいています。わずか数十メートルの石畳の小径は小さなせせらぎもあって、心地よい空間になっていました。

はけの小径 のコピー.jpg
はけの小路

午前中を歩いてくるとちょうどお昼時。茶室と並んで建つ、かって画家の主屋だった建物が今、カフェになっています。森の中のカフェでいただくランチは特別なメニューではないけれど格別でした。

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