医史跡を巡る旅 №77 [雑木林の四季]
江戸の疫病 疱瘡神 其の弐
保健衛生監視員 小川 優
新型コロナ感染症、感染拡大の転機に差し掛かっています。既に増加傾向は誰の目にも顕著ですが、この先爆発的に増加し、市中感染期を迎えるかどうかは、ここ数週間の挙動次第と考えられます。もはや手遅れという感もありますが…。
前回は江戸の人々が、逃れられない疫病を引き起こす原因を疱瘡神とし、もともと姿のないものを、豊かな想像力で形にしてきたということをお話ししました。
そして伝承され、絵に描かれ、あるいはまじないに用いられた姿として、
① 悪鬼や魑魅魍魎など異形の者
② 老人
③ 童子
の例をご紹介しました。
① 悪鬼や魑魅魍魎など異形の者
② 老人
③ 童子
の例をご紹介しました。
一方で、疱瘡神を祭る神社や、祠は数々ありますが、信仰の対象として疱瘡神を形にしたものはほとんど見当たりません。よく見られる例としては、自然石や石柱に「疱瘡神」の三文字を刻んだものです。
「疱瘡神石塔 春日神社」
「疱瘡神石塔 春日神社」 ~千葉県千葉市中央区矢作町 春日神社
これらの石塔は、道祖神や庚申塚などの塞神と同じく、街道の道端、集落の境、あるいは神社や寺院の境内に建立されました。特に集落の境にあるものは、結界と「疫病送」の意味もあります。疫病送とは、前回「草津張子 猩々」で引用した「猩々返し」もその一例で、疫病の流行が終わった時、あるいは早く終わらせるために、疫病を形取った依代を集落の境まで運んで丁重に送り出す行事で、その場所の目印が疱瘡神の石塔でありました。
こうした疱瘡神石塔ですが、文字だけでないわずかな例外が、千葉市周辺と、取手市周辺のみにあります。何故かこの二地域にだけは、像が刻まれた石塔状の疱瘡神が見られます。
「春日神社 石塔群」
「春日神社 石塔群」 ~千葉県千葉市中央区矢作町 春日神社
千葉市中央区といっても、市街地から少し離れると長閑な風景が広がっています。新興住宅地と昔ながらの集落が入り交じり、かつての村落の状況を伺うことは難しい状態ですが、古くから村々の信仰の対象であったろう社は、今も受け継がれて住民によって維持されています。矢作地区の春日神社は、明治政府の合祀政策により近隣の白山神社、天神社、日枝神社などを統合したそうで、境内にはもともと春日神社にあったものも含め、様々な石塔が設置されています。手水舎に隣接したところに並ぶ石塔のうちひとつは、画像①でご紹介した「疱瘡神」という字のみですが、画像②の左端に移っているものはレリーフ状に人物が描かれています。
「疱瘡神石塔(単身立像) 春日神社」
「疱瘡神石塔(単身立像) 春日神社」~千葉県千葉市中央区矢作町 春日神社
風化してわかりづらいですが、杖をついた老婆が浮き彫りにされています。また花をつけた木が併せて彫られています。
「疱瘡神石塔(単身立像)その1 大宮神社」
「疱瘡神石塔(単身立像)その1 大宮神社」~千葉県千葉市若葉区大宮町 大宮神社
次にご紹介するものは同じく千葉市内、若葉区大宮町にある大宮神社にある石塔です。春日神社と同じ意匠になりますが、こちらは唐破風のある屋根があります。文政九年(1826)建立と記されていますが、石像の状況はとてもよく、杖をつく老婆の表情まで見て取れます。背後には春日神社のものと同じく、花木が見て取れます。
この樹木は梅だと言われています。その理由としては、花が散ることを疫病の収束になぞらえる「鎮花祭」からとか、寒さの中でほかの花に先んじて咲くことで生命力の再生、あるいは梅の花の咲く頃から疫病が流行り出すからと諸説あります。
「疱瘡神石塔(単身立像)その2 大宮神社」
「疱瘡神石塔(単身立像)その2 大宮神社」~千葉県千葉市若葉区大宮町 大宮神社
大宮神社にももう一つ、疱瘡神と伝えられる石塔がありますが、風化が進んでいてあまり良い状態ではなく、石塔から得られる情報も限られています。
「大宮神社 石塔群」
「大宮神社 石塔群」 ~千葉県千葉市若葉区大宮町 大宮神社
このほかにも千葉市内には数体、神像を刻んだ疱瘡神塔があるとのことですが、まだ一次文献が確認できていないため、これ以上のことはわかりません。
「取手宿 本陣」
「取手宿 本陣」 ~茨城県取手市取手
取手市は東京からJR常磐線で小一時間、千葉県我孫子市と利根川を挟んで茨城県側に位置しています。江戸時代以降、水戸街道沿いの千住宿から五番目の宿場町として栄えてきました。
この取手宿の周辺には、多くの疱瘡神石塔があり、そのうちの十数基に男女双体神像が刻まれています。不思議なことに、意匠は似通っているものの、二つとして同じものがなく、それぞれに趣があります。北西から順に見比べてみましょう。
この取手宿の周辺には、多くの疱瘡神石塔があり、そのうちの十数基に男女双体神像が刻まれています。不思議なことに、意匠は似通っているものの、二つとして同じものがなく、それぞれに趣があります。北西から順に見比べてみましょう。
「疱瘡神石塔その1 寺田青龍神社」
「疱瘡神石塔その1 寺田青龍神社」 ~茨城県取手市駒場 青龍神社
取手の疱瘡神像の特徴は、男女相体であることがあげられます。寛政11年(1799)の銘があるこちらの石塔では、将棋の駒の形をした石塔で上部に注連縄、男神は幣束を担いだ立像、女神は座ってお皿のようなものを持っています。
「疱瘡神石塔その2 寺田青龍神社」
「疱瘡神石塔その2 寺田青龍神社」 ~茨城県取手市駒場 青龍神社
青龍神社入口には疱瘡神石塔がふたつ並んでいます。もうひとつの石塔は嘉永7年(1854)年造立、駒形で注連縄がありますが、男神、女神ともに座っています。男神は幣束を、女神は徳利を手にしています。場所は寺原駅に近く、関東鉄道の線路に面した場所です。
「疱瘡神石塔 寺田鹿島神社」
「疱瘡神石塔 寺田鹿島神社」 ~茨城県取手市本郷 鹿島神社
寺原駅から東に向かい、小高い丘の中腹にあるのが寺田鹿島神社。寺田鹿島神社境内にある疱瘡神石塔は安永5年(1776)に建てられ船の形というか、上部に屋根、破風を模しています。注連縄も太くて立派なもの。上部に赤が入れられているのも特徴的です。両神ともに座しており、男神が幣束、女神は徳利を持っています。
「疱瘡神石塔 寺田鷲神社」
「疱瘡神石塔 寺田鷲神社」 ~茨城県取手市寺田 鷲神社
鹿島神社のある丘を越えると、広々とした田園が広がります。海のような平らな田畑の中に、島のように樹木が茂る場所があり、そこに集落や社寺があります。鳥居の前、道沿いに石塔群があり、そのひとつが疱瘡神石塔です。鷲神社の石塔は、舟形注連縄ありで、男女両神ともに座っています。男神は幣束、女神は徳利を持っています。文政6年(1823)造立。
「疱瘡神石塔 桑原水神社」
「疱瘡神石塔 桑原水神社」 ~茨城県取手市桑原 水神社
さらに田んぼの畦道を辿ると、桑原地区に入ります。集落の端に水神社はあり、入口に疱瘡神塔があります。これには造立年が記されていません。駒形で注連縄あり、男神女神ともに座っています。風化してわかりづらいですが、男神は幣束、女神は徳利状のものを持っています。男神女神それぞれの頭上に、神社の破風状のものが描かれています。
「疱瘡神石塔 桑原愛宕神社」
「疱瘡神石塔 桑原愛宕神社」 ~茨城県取手市桑原 水神社
南に進路を変えて、国道6号線を渡って集落の中にあるのが愛宕神社。文政5年(1822)造立、こちらの石塔も風化が進んでいます。駒形で、上部に注連縄があり幣束を肩にかけた男神と、徳利を持った女神が座しています。
やっと常磐線の北側が終わりました。残り半分、南側はまた次回に。
なお今回および次回の記事は、榎本正三氏の「赤の民俗~利根川流域の疱瘡神」と、「日本の石仏 季刊第14号」掲載の横田甲一氏の「取手市の疱瘡神像」を参考としています。
2020-11-13 19:21
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