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梟翁夜話 №75 [雑木林の四季]

「柿の木始末記」

                翻訳家  島村泰治

これからお話しする物語は、八十五歳の翁には到底出来まいことをし遂げたと云ふ、稀にも稀な成功譚だ。やり遂げた感があるにせよ、やや我田何やらに過ぎるぞよの顰蹙も買いかねまいが、当の本人は一向にさうは思はず、むしろ所構はず吹聴したい心地なのだから、そこはそれ、老翁の世迷ひ言と読み流していただきたい。

柿の木は脆いと云ふ。昔から子供が柿の木に上ると決まって気をつけよと戒めたものだ。たしかに柿の木は、樫(かし)や枹(なら)と違って柔で折れやすい。折れやすいから上るには足場の枝を確かめる用心は暴れ坊主どもは先刻承知で、案外と柿の木から落ちた話は聞かない。

その柿の木をひと思いに剪定しやうと思ひ立ったことからこの話は始まる。いや、そればかりではない。去年から今年にかけて、わが庵では木樵作業が盛りで枝木を捌くためのシュレッダーさえ入手したほどだ。切っ掛けは一本の老桜で、電線に触るからと伐採したこと(https://wyess11.xsrv.jp/main/2019/11/05/sakura-kikori/)から、そのために仕込んだ電鋸の使い勝手が広がって二本目の大木を伐ったり(https://wyess11.xsrv.jp/main/2020/10/28/kikori2/)と妙に木樵づいてゐたことから、余勢を駆って伸び過ぎて野鳥たちの餌場になってゐた裏の柿の木を伐り詰めやうと目論んだのだ。

鶏舎の西側にあるこの柿の木、これは樹齢如何程だらうか、うん十年も経つのだらう、去年などは枝先が折れさうなほど生ったが、今年はどうやら不作で実は小振り、皮肉なもので大振りの実は中空高く柿取り竿が到底届かない。あたら野鳥の餌場になるものなら、剪定を兼ねて枝おろしをしやうと思ひ立った次第。

如何に木樵づいてはいても、八十五歳の木登りは危ふい話だ、と愚妻がまず軽く翻意を促す。軽くとは、できる事なら中空の柿らしいい柿を取ってくれろとの言外のメッセージとも読み取れるからだ。柿の木は折れやすいからなどとも付言する。判断の難しいところだ。確かに膝の手術から一年半、平地の移動は常人と変はらぬほどアジリティーが出てはゐたが、段差の極み、木登りはやや荷が思ひかも知れぬ。

さらに考へを巡らす。桜の次に楠(かも知れない)と太い幹の樹木を電鋸で捌く快感を思い出す。その間チェインが何度も外れ、その都度首を傾げながら装着を重ねてやうやくコツを会得したところだ。だから、伐ることには不安はない。問題は足場だ。足場さえ固められれば後は注意力の如何で何とかなるか?

柿の木を見上げてまた考えた。見れば横枝の二本は鶏舎の屋根の上に広がり、共に東へ伸びてゐる。もうひと群れの枝は上に伸びる奴と西へ伸びてゐるのとで、どちらも梯子を安全に組めばどうにか届く。実の数はこちらの方がぐんと多い。これを落とせば事なれり、と云ふことか。予想される伐り口は鶏舎の屋根からは背丈ほどだらう。思ふに、鶏舎の屋根に立てれば、いずれの枝も捌けるのでは。

梯子で登ってみれば、鶏舎の屋根は思ったよりしっかりしており、50センチ幅で打ってある鋲に沿って立てば70キロ弱の体重を充分支へられると見た。鋲に沿って歩けば歩けもすると踏んだのだ。よし、鶏舎の屋根に立って作業をしやう。足場の心配はないから電鋸の操作に不安はない。これはいける。

柿の木の剪定作業はかうして決まった。三本目の木樵仕事だ。八十五歳にしてプロ並みの木樵仕事だが危機意識は毛ほどもなく、伐り終へた時の満足感がすでに溢れる。その段階では、すべての枝を一日で落とし、柿取り作業と枝葉の処理を次の日に、ぐらいに舐めてかかっていた。

屋根に登ってみて、東側の二本の枝は伐り口が目の高さで伐るのに何の造作もいらぬ。綱を縛り付けて南へ投げる。Nboxに牽引の手筈だ。身構えた愚妻が綱を引き取り、車に取り付けて両手で輪を作り準備万端よしと知らせる。電鋸を当てて楔形の切り込みを入れる。折れやすい柿の木だ。三分の二も切り込みを入れた状態で車に合図、合図に応えて綱がピンと張る。伐り口に軋みが走る。さらに引が入った瞬間に枝が南へ折れて落ちた。

だが、落ちた瞬間を私は見ていない。軋みが走って、はしりの小枝が帽子を跳ね飛ばし眼鏡を叩き落として、一瞬目を瞑った。幸い眼鏡は足元に、帽子はあらぬ方向の枝にぶら下がっていてことなきを得た。災難間際の出来事、下手をすれば屋根から転げ落ちなん騒ぎだった。

見下ろせば、伐り倒した枝は鳥たちの遊び場の網屋根の上だ。真上に突如落ちた柿の枝に一瞬たじろいだ鳥たちは、鶏舎に駆け込んだのもゐれば無心に土遊びを続けるのもゐる。鳥にも根性のあるなしが見えて感心する。

足元を見る。齧(かじ)り掛けの柿が一個、枝葉にまとわりついて落ちてゐる。いや、齧りかけではなく、ついばみ掛けの柿だ。ふと思ふ。見てもご覧あれ。あれほどの数の柿が、本来なら鳥たちの餌として中空にあった筈だ。実が少し和らぐのを鳥たちは待っていたに違いない。

ついばみ掛けの柿の実をしげしげと見る。これはカラスのくちばしではない。椋鳥か雀だらう。まだ硬さの残るやつを待ち切れずにつついたに違いない。もうしばらくはこの柿は生らないから、馴染みの鳥たちは他の餌場を探すだらう。済まないことした、と軽い後悔の思いが過(よ)ぎる。一日の筈が何と三日もかけて残りの枝々も同じ要領で倒し、わが庵の柿は丸裸になった。切り口に塗った養生液の橙色が空の青に映へる。

例の大木と柿の木が消えた北側のスカイラインが、まるで変った。齢と云へば、近所の百姓が愚妻に感に耐えたように云ったとか:「あのでかい柿の木をあのお爺さんが一人で伐ったんかい?命がけの仕事だよ、あれは」何をか言わんや、である。だがしかし、つらつらわが齢(よわい)を思へば、木樵三昧はこれでチョンになるだらう。




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