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多摩のむかし道と伝説の旅 №51 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

           多摩のむかし道と伝説の旅
     ―松姫と童謡「夕焼け小焼け」ゆかりの案下道を行くー2

               原田環爾

 分岐道を無視しそのまま街道を進む。程なく南浅川に架かる水無瀬橋の袂に来る。橋上から上流の西方向に目を案下道2-1.jpg案下道2-2.jpgやると、高尾山稜の山並みを背景とした南浅川のびやかな風景が展開する。南浅川は堤の道だけでなく、河川敷にも瀟洒な遊歩道を備えている。ところで水無瀬橋とは一風変わった名前であるが、これは弘法大師の伝説に由来する。すなわち昔、弘法大師がこの橋の袂を訪れたことがあった。大師は喉が渇いていたので、橋の袂にあった一軒の農家に立ち寄り、そこにいた婆さんに一杯の水を所望した。しかし婆さんは一杯の水を惜しみ、「川の水でも飲みな」と言って無視。大師は止む無く河原に降りて喉を潤すことにした。喉を潤した大師は河原に立ち、何やら念仏を唱えて持っていた杖で河原を突いて立ち去った。すると異変が起こり今まで満々と流れていた水がこの橋の辺り迄来ると忽然と消えてしまい、水の無い河原になってしまった。以来ここを水無瀬河原といい、橋の名を水無瀬橋と呼ぶようになったという。
 水無瀬橋を後に街道を進む。沿道右に大きな旧家が現れる。横川家の屋敷で女子教育の先駆者横川楳子女史の生家だ。横川楳子は嘉永6年(1853)横川町に生まれ、東京女子師範学校付属幼稚園の保母・教員を経て、明治17年(1884)自宅に女子教授所を開設、明治24年(1891)本立寺の好意により、同寺の敷地の一角に校舎を建て、私立八王子女学校を開校した。明治41年(1908)すべてを東京府に寄付し、府立第4高等女学校を経て、昭和25年(1590)都立南多摩高校となった。
案下道2-3.jpg 程なく街道はゆっくりとS字状にカーブし、前方に中央自動車道のガードが見えてくる。ガードのすぐ手前には三村橋があり、下には城山川が流れている。川の名は水源がここより西の八王子城の城山であることによるのであろう。三村橋を渡るとこの先は叶谷町となる。ガードくぐると右方向へ入る分岐道が現れる。街道は真っ直ぐの道であるが、案下道はこの分岐道の道筋である。案下道に入ること約100m、沿道左に一寺が現れる。西蓮寺という寺だ。山門をくぐると境内には本堂、鐘楼、薬師堂がある。本堂は味気のないコンクリート製であるが、薬師堂は古く都文化財として有名である。真言宗の寺で山号を涼水山と号し大幡宝生寺末である。室町時代の寛正年間(1460~1466)の創建と伝える。寺域は元は金谷寺という寺のものであったが廃寺となり、この先の四谷にあった西蓮寺が明治28年火災に逢い、この金谷寺の跡地に移ってきたという。境内の薬師堂は金谷寺時代の遺構という。薬師堂内の虹梁などの一部に焦げた跡があるが、新編武蔵風土記稿によれば、天正18年(1590)の豊臣方の上杉景勝の兵が八王子城攻略の時、堂内で炊事したためであると伝えられている。なお当時の住職は祐覚和尚で、八王子城本丸の中で護摩修行中、猛炎に包まれて壮烈な焼死を遂げたという。
 西蓮寺の山門前から更に旧道を100mも進めば、直角に左へ急カーブするが、その曲がり角の筋向いにランド案下道2-4.jpgセル地蔵で知られる浄土宗の相即寺がある。山門をくぐると左手に延命閣と称する地蔵堂がある、ランドセル地蔵はここに納められている。ただ御開帳の時以外は施錠されて見ることはできない。代りに地蔵堂の前にランドセルを背負った小さな新造の地蔵が立っている。ちなみに筆者は幸いにも偶然堂内の工事で開門している時に出くわし、地蔵を見ることができた。相即寺は浄土宗の寺で山号を東原山と号す。この地にやってき忍誉上人が村人に切望されて、天文16年(1547)開山した。上人が入寂した後、後を継いだ讃誉上人の時、八王子城落城の悲劇があり、その戦死者を弔うため遺体を引き取り埋葬し、そこに慰霊堂を建て150体の地蔵尊を造立して堂内に安置した。それが延命閣の始まりという。現在の延命閣地蔵堂は明和8年(1771)に建立されたものである。
案下道2-5.jpg案下道2-6.jpg ところでランドセル地蔵とはこんな話である。昭和20年7月8日、東京品川の原国民学校4年生神尾明治君が、疎開先の元八王子村の隣保館保育園で、硫黄島から飛来した米軍飛行機P51の機銃照射を受けて死亡した。悲しんだ明治君の母親が、明治君が使用していた形見のランドセルを、相即寺の住職にお願いして、明治君に一 番似ている堂内の地蔵にかけて帰って行った。その母親は翌年命日を待たずに昭和21年2月28日病で亡くなった。この実話は戦後永らく埋もれていたが、世に広く知られるきっかけとなったのは、八王子在住の児童文学作家古世古和子氏が空襲で亡くなった児童の取材活動をもとに、1979年世に出した児童書「家でねこのなぞ」の中でケンちゃんの名で紹介したことによる。本書の中では空襲で亡くなった事実は記載されているが、ランドセル地蔵のことは一切記載されていない。しかしこの出版により初めて真相が明らかになった。すなわち児童書を読んだ相即寺住職の豊島徳宝氏によってケンちゃんのランドセルを背負った地蔵が相即寺の延命閣地蔵堂の中にあることが明らかにされた。更にケンちゃんの本名が神尾明治君であることも、児童書を読んだ原小学校の教頭によって明らかにされた。
案下道2-7.jpg 相即寺の前の旧道の分岐点から西へ向かう細い路地に入る。迷路のような細い道をうねうねと道なりに進むと、集落の中程にぽっかりと弁天池と呼ばれる小さな湧水池が現れる。池畔に佇むと、まるで別世界にいるような癒しの空間を体感できる。湧水は先の城山川に注いでいると思われる。湧水池を後に更に路地を進むと、やがて交差点『八王子四谷町』のすぐ手前で街道に合流する。交差点は古くは「四辻」と呼ばれていた所だ。
 交差点を横切り街道に沿って進むと、右は諏訪町、左は大楽寺町となる。やがて道標は「下諏訪宿」、次いで「諏訪宿」と案下道2-8.jpgかつての諏訪宿に入る。ここから街道右へ100mも入れば諏訪町の鎮守諏訪神社がある。境内は広く正面に拝殿がある。社殿はコンクリート製で古さがないのは、昭和40年の暴風雨で社殿が倒壊し再建したことによる。拝殿の手前の右側には御神木のほうの巨木が立ち、また拝殿の東側には寿池と称する池がある。そしてその池を囲むように東側一帯は緑の樹木が茂る公園になっている。(この項つづく)

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