SSブログ

論語 №108 [心の小径]

三四〇 子のたまわく、命を為(つく)るに神話これを草創し、世淑(せいしゅく)これを討論し、行人(工人)子羽(しう)これを修飾し、東里の子産(しさん)これを潤色(じゅんしょく)す。

              法学者  穂積重遠

 「命」は諸侯と応対する「辞命」の書、すなわち外交文書。「行人」は催事をつかさどる官、すなわち外交官。「東里」は子産の住所。この四人は鄭国(ていこく)の賢大夫であって中でも子産が総理大臣格であり、『左伝』(嚢公三十毒)にも「子産の政に従うや能を択(えら)びてこれを使う。」とあるように、外交文書一つ作るにも衆知を集めたので、小国をもって晋楚両大国の間にはさまりながら滅びないのだと、孔子様がほめられたのである。

 孔子様がおっしゃるよう、「鄭の国では外交文書を作るのにも、まず稗諶(ひじん)がだいたいの要項を立案し、世淑が故実をただし論理を合わせ、外交官子羽が文章を添削整理し、最後に東里の子産の手元で文飾を加えて仕上げをする。さても念の入ったことかな。」

三四一 或ひと子産を問う。子のたまわく、恵人(けいじん)なり。子西(しせい)を問う。のたまわく、かれをや、かれをや。管仲(かんちゅう)を問う。のたまわく、人なり。伯氏の駢邑(へんゆう)三百を奪う、疏食(そし)を飯(くら)い、齒(よわい)を没するまで怨言(えんげん)なかりき。

 本章は三人の賢大夫、鄭の子産、楚の子西、邦の管仲の批評である。子産と管仲は前に出た(六二・一〇七)。子西については、古証に『子西は楚の公子申(しん)、能(よ)く楚の図を遜(ゆず)り、昭王を立ててその政を改紀(かいき)す。亦賢大夫なり。然れどもその僣王(せんおう)の号を革(あらた)むる能わず。昭王孔子を用いんと欲して又これを阻止す。その後ついに自公を召きて禍乱(からん)を致す。すなわちその人と為り知るべし。」とある。それ故孔子様は問題にされなかったのだ。「三百」は「三百家」という説と「三百里」という説とある。「里」は前にあったように(一二二)二十五家だから、後説だと合計七千五百家になる。戸数の多い方が話がおもしろいから後説を採ろう。

 ある人が子産の人物をおたずねしたら、孔子様が「仁愛の人じゃ。」とおっしゃった。
子西をおたずねしたら、「あの人は、あの人は。」と言われて問題にされなかった。さらに管仲の人物をおたずねしたら、孔子様がおっしゃるよう、「あれは人物じゃ。国政を執ったとき、大夫伯偃(はくえん)の罪をただして、駢邑という七千五百戸もある大きな領地を没収し、そのために伯偃は困窮して、食うや食わずで一生を送ったが、死ぬまで恨み言を言わなかった。すなわちその処置が公明正大で、処分された者をも心服させたのである。」

三四二 子のたまわく、貧にして怨むことなきは難し。宮みて疇ることなきは易し。
                                        
 孔子様がおっしゃるよう、「生活に困ると、とかく人を怨む心を生ずるものだから、貧困でも天命に安んじて怨みがましいことのないのは、すこぶるむずかしいことじゃ。それにくらべると、富んでもおごらぬということは、少しく真理をわきまえた者にはやさしいことなのだが、しかしそのやさしいことすらできぬ者が多いのだから、お前達は、その難きをつとめ、その易きをゆるがせにせぬようにせよ。」

三四三 子のたまわく、孟公綽(もうこうしゃく)は、趙魏(ちょうぎ)の老と為らばすなわち優なり。以て滕薛(とうせつ)の大夫と為すべからず。

 「孟公綽」は魯の大夫。次章によれば無欲の人だったとのことだが、政治的手腕はなかったらしい。

 孔子様がおっしゃるよう、「孟公綽は、晋の趙家や魏家のような大家でも一家の家老としては十二分だが、滕や薛のような小国でも、一国の大夫として国政を執るには不適当だ。」

 いわんや膝や薛よりも大きな魯の大夫としては、の意味がふくまれている。「老」は家臣の長だが、古証に「大家は勢重くして諸侯の事績なく、家老は望尊くして官守の責なし。」とあって、手腕はなくとも人格者ならばつとまるのである。

『新訳論語』講談社学術文庫


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。