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ケルトの妖精 №38 [文芸美術の森]

ローン

            妖精美術館館長  井村君江

 スコットランドのジョン・オ・グローツという村はアザラシ漁がさかんだった。この村の漁師ピーター・ルアックも、むかしからアザラシを捕って暮らしをたてていた。
 ある日、ピーターは北の果ての海で、いままで見たこともないようなりっぱなアザラシと出会った。腕に自信のあったピーターは、この大きなアザラシを仕留めようと、長年使ってきた手慣れのナイフをふるってアザラシに挑んだ。
 ところが、アザラシはピーターの想像したよりもずっと手強く、波しぶきを浴びる狭い岩場で死闘を練りひろげることとなった。とうとうピーターは、ナイフをアザラシに突き刺すことには成功したが、アザラシはなおも暴れて、ピーターの手をふりほどくと、ナイフを突き刺したまま、黒い波のなかに姿を消してしまった。
 アザラシを取り逃がし、愛用のナイフも失ったピーターは、意気消沈して家に帰った。
 その晩、ピーターが眠りについたころ、戸口を叩く音がする。
 戸を開けて出てみると、身なりのととのった青年が、馬具もみごとな二頭の馬を連れて立っていた。
「あなたのアザラシの皮は評判がよいので、ぜひ売っていただきたいと主人が申しております。つきましては、主人と商談をすすめるために、館までわたしに同遺していただけませんか」
「こんな夜中にですか」といぶかしむピーターに、「ぜひに」と青年は懇願した。その熱心さに負けて、ピーターは青年が連れてきた馬に乗って出かけていくことにした。
 ピーターが馬の背に腰をおろすと、二頭の馬は疾風のように駆けだし、あっという間に人里を離れて、風の吹きすさぶ海岸の崖の上に着いた。しかし馬は足を止めるそぶりもなく、そのまま海へ向かって宙を飛んだ。恐怖の叫び声をあげたピーターが、馬から飛びおりる間もなく、馬もろとも海中に沈んでいった。
 底へ底へと、ピーターはその見知らぬ青年に手綱を引かれて沈んでいった。
 気がつくと、そこは海の底の洞窟のなかのようだった。
 見まわせば、そこかしこにアザラシが座っていた。その姿はまるで宮廷に侍る貴族や騎士のように威厳があった。よくよく目をこらせば、その洞窟は自然のままの状態ではなく、人工的に贅をつくしてつくりあげた宮殿のように見える。
 洞窟のずっと奥には、たくさんのアザラシに囲まれて、ひときわ風格のあるアザラシが横たわっているのが見えた。そこから、なにやら悲しみの気配が伝わってきた。
 ピーターはたくさんのアザラシのなかに放りこまれて、恐怖におののいた。「自分はここにいるアザラシの一家眷属をつかまえて暮らしをたててきたのだ」ということに気がついたからだ。
「こわがらないで、ついてきてください」
 ピーターを連れてきたアザラシの青年が言葉をかけ、並みいるアザラシのあいだをぬって、奥で横たわっているアザラシの前に連れていった。見ると、そのアザラシはひどく弱って苦しそうだった。
「わたしの父であり、ローン族の王です。今朝がた、海面から戻ってきたのですが、腰にナイフが刺さって大けがをしています。あなたはこのナイフに見覚えがありますね」
 と青年は言った。
 それはまさしく、ピーターが失ったアザラシ漁のナイフだった。
「このナイフが父王に傷を負わせたのです。あなたにしか、この傷はいやせないのです」
「たしかにこのナイフはわたしのものですが、傷をいやす方法なんて、わたしはなにも知りません」
 ピーターは、おずおずと答えた。
「それはわたしが教えます。あなたは父に生きていてはしいと願ってくれさえすればよいのです」
 青年は言って、ピーターに指図した。
 ピーターは「怪我が治りますように」と願いをこめて、言われたとおりに、傷のまわりに円を描きながらそのナイフでアザラシの腹をなでた。
 するとローン族の王であるアザラシは、床から起きあがった。傷はすっかり治っていて、
王の風格をあたりに漂わせた。
 アザラシの青年もほかのアザラシたちもよろこんで、口々にピーターに礼を言った。
 それでもなお、ピーターは、これまでのアザラシ漁のことを思い、罰を受けるのではないかと、身をすくめて恐れていた。
 それを察したかのように、アザラシの青年は、
「ひとつだけ約束をしてほしい。そうすればあなたはなにごともなく、家に帰ることができるのです」と言った。
 その約束とは、「二度とアザラシを捕らない」と誓うことだった。
 ピーターはこうしてアザラシの王国を見てしまったいま、金輪際アザラシを捕るのはやめようと考えていたので、すんなりと誓いの言葉を口にすることができた。
 アザラシたちはうれしそうに感謝を述べ、顔をなごませた。
 アザラシの青年は海岸までピーターを連れてくると、親切に家まで送りとどけてくれた。
戸口で別れるときには、たくさんの金貨を手渡してくれて姿を消した。
 ピーターはもうアザラシを捕らなくても、このお金でゆっくりと生活を送ることができた。

◆ローンはアザラシを意味するゲール語で、アイルランドでは「アザラシ妖精」の意味がある。
「アザラシ妖精」は海のなかではアザラシの皮を着ているが、陸にあがるとアザラシの皮を脱いで人間の姿になると信じられている。そこで日本の羽衣伝説のように、アザラシの女が脱いだ皮を漁師の男に隠され、男の妻になって陸で暮らしていたが、ある日皮を見つけて海に帰っていくという話が伝わっている。妖精はいちどは人間と結ばれても、いつかは人間の前から姿を消してしきつことが多い。
 ローンの気立てがやさしく人間に害を加えることもないのには、アザラシがやさしい感情をもつと信じている人々の思いが反映されている。
 スコットランドのローンによく似たアザラシ妖精に、オークニー諸島やシエツトランド諸島のセルキーがいる。この地方ではゾウアザラシのように大型のアザラシはセルキー人間と呼ばれ、彼らの本来の姿は人間であり、海底や人里離れた岩礁に住んでいて、どこかに移動するときにだけアザラシの皮をまとい、アザラシの姿をとるのだと信じられていた。
 セルキーはもとは人間で、罪を犯したために海に追放されたのだという考えや、地獄へ落とされるほど罪深くはないが、罪を犯して天国を追放された天使が、陸にあがったときだけ人間の姿になることが許されているのだとする言い伝えもある。

『ケルトの妖精』 あんず堂


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