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渾斎随筆 №68 [文芸美術の森]

相馬和風のこと 

                 歌人  会津八一                    

 今朝の十時に相馬君が亡くなったといふが、何ともいへない私の気特だ。
 實は近いうちに新潟で良寛禅師の遺墨展をやるといふことになつて、相馬君と安田靫彦君と私とが顧問といふものにされてゐるので打合せのために、こちらから若い人を一人あげるから、よろしく頼むといってやつたところ、四月中は、からだの調子がひどく悪いから、五月になってからにして欲しいといふ返事であったが、そのまま亡くなってしまったものと見える。
 といつても、調子の悪いのは今に始まったのではなく、近年はずつと弱つて、ことに昨年から左半身が利かなくなつて、もちろん床は萬年床、よくよくでないと、誰にも合はぬことにしてゐたらしい。
 この人は、年は私より二つ下であつたが、早稲田では同級生であつた。今の青年たちには可笑しいほど古い談になるが、われわれ二人が早楢田にはひつたのは明治三十五年の春、卒業は三十九年の秋で、二人とも英文単科といふのを修了したのであつた。
 私は今でも、とかくさうであるが、その頃は、もつともつと無精もので、同級生の中でほとんど誰にも口を利かず、交際らしいことをしなかつた。けれども毎日教場で見るいろいろの顔の中で、色は白く、眉は濃く、頬はほんのりと紅く、なかなかの男振りであるが、何となく越後ものにちがひないと思はれるのが一つあつた。それが、なぜ越後ものに違ひないのか。そこのところは私にも解らないが、とにかく越後ものと、心の中では決めてゐた。
 するとその年の暑中休暇になって新潟へ歸る時に、私の乗る列車が上野を出てから間もなく気がつくと、その越後ものらしい顔の持主が、白地の浴衣にカンカン帽をかぶって、いつのまにか私の隣に坐ってゐた。交換した名刺で、はじめて相馬昌治といふ名を知つた。そして私のかねがねの鑑定あやまたず越後糸魚川の人で、中学は高田であったこともわかつた。
 その時、相馬君は手に持ってゐた白扇の歌を私に見せてくれて、自分は今この人たち夫婦の雑誌の仕事を手傅ってゐるのだといつた。それは輿謝野鐡幹自筆の一首であった。
 その後相馬君は「明星」を離れて、前田林外、岩野泡鳴の二人とともに「白百合」といふ雉誌を出し、どちらが先であつたか忘れてしまつたが、「睡蓮」といふ處女歌集を出したのもその頃だ。念のためにことわるが、これは學生時代のことでもあり、賣れる方は考へてゐなかつたと、あとで當人がいってゐた。なんでも親爺の金を二百園も持ち出して、大部分は寄贈してしまつたといふことだ。       
 島村抱月氏が、眞赤な靴下をはいたりして、洋行から歸つて、早稲田の教壇に立ったのは、われわれの最後の一年も年分以上過ぎた後であつたが、相馬君あたりは、物の見方、考へ方、書き方などについて、この人に最も深く傾倒して、大きな影響を受けたらしい。卒業後は島村さんが主宰した「早稲田文學」の編集に奔走してゐた。そして島村さんの書いたトルストイ劇の中の、あの「カチユーシャ可愛や別れのつらさ」といふ小唄などは、相馬君が作つたものだ。それから今も唱はれてゐる早稲田の「都の西北」は、相馬君の作に、坪内先生が存分に手を入れられたものだ。とにかくこの頃は相馬君の一番華やかな時代であった。
 私の方は卒業するとすぐ頚城の有恒學舎へ英語の教師として赴任して、ひまひまに奈良美術の研究を始めたり、またはど遠からぬ信州柏原の俳人一茶のことを調べたりしてゐた。その頃相馬君は毎年糸魚川へ歸つて来た。その途中にいつも先づ高田へ立ちよる。私は呼び出されて、田端の何とかいふ料理屋で合って、酒を飲みながら互に近状を語り合つたものだが、そのうちに相馬君は、だんだん東京の文士生活が厭になったと、とかく愚痴をいふやうになった。そして、しまひには私に向つて、位置の交換を申込んだこともある。つまり、私を「早稲田文學」の記者にして、自分は有恒學舎へやって来たいといつたやうなわけであつた。私は不承知であったが、事實上は、私は間もなく、母校の教員として東京へ歸ることになり、相馬君は、浮薄な文士生活の告白ともいふべき「還元録」といふものをのこして、糸魚川に歸つて、永久にそこに腰を据ゑることになつた。
 相馬君の越後での最初の仕事としては、郷土の傳説や民謡などを集めて、小川未明君と協力して、その整理をするといふことで、その相談を受けたこともあるが、君や小川のやうな文章家が筆を入れたりすると、民話や傳説が死んでしまふから、それはいけないといつて、忠告したこともあるが、その後、糸魚川中學の教頭になって行った山崎良平君が、もともと西蒲原の人で、あの連の人の常として、とかく良寛の話を持ち出す。ことに山崎君は第一高等學校の學生時代に、こまごまとした良寛論を書いて、一高の校友會雄誌に出して、學生間に名聾を馳せたほどの人であつたので、この山崎君の刺戟の下に、相馬君の良寛熱が湧き上って来たものらしい。
 良寛を尊敬したり褒めたりした人は、地方的には、昔からたくさんあつた。相馬君が大正七年頃になって「良寛詩歌集」や「大愚良寛」を書いたからといつても、順序からいへば、決して早い方どころか、むしろ一番遅い方といってもいい。けれども良寛の味ひ方、取扱ひ方、その表現のたやすさ、うまさ、わかり易さなどのために、學者でも歌人でも識者でも何でもない一般の人々のために、九州、臺湾のはてまでも、良寛をば、誰にでもよく親しめる、好もしい坊さんにしてくれたのは、全く相馬君のお手柄で、この手柄はほんとにたいしたものだ。それにしても、こんな風に良寛に親しむうちに、ご當人の相馬君自身も、ある方向へ精進もし、向上もし、また、そのために有名にもなつたやうだ。
 つまり鐵幹、晶子から泡鳴、それから抱月、その関係でトルストイ、それからおしまひに故郷の良寛さまといふところに落ちついた。してみるとやはり私が最初から見抜いてゐた通り、相馬君は本質的に「越後もの」であったのであらう。  (五月八日記す)
                  『新潟日報』夕刊昭和二十五年五月十日

『会津八一全集』 中央公論社


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