SSブログ

雑記帳2020-11-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-11-1
◆外堀巡り2回目は鍛冶橋後から溜池山王まで。

江戸城外堀は、幕府が諸大名を動員して寛永3年(1636)に完成させた、江戸城の外郭をなす水濠です。
三大将軍家光の時代、参勤交代で江戸にやってくる大名の邸が内堀の中ではまにあわなくなり、内堀の外に作った武家屋敷と商人町や寺町を区分するために作ったのが外堀です。
外堀は明治以降も鉄道や駅、高速道路に利用されて、東京の町づくりに大きな影響を与えています。
東京駅周辺の、幅60mもあった外堀は、昭和20年代、第二次世界大戦の戦災瓦礫の処理のためにすっかり埋めたてられてしまいました。
その東京駅八重洲地下街に八重洲の名の由来になった、ヤン・ヨーステンの胸像があります。
ヤン・ヨーステンはオランダ人商人。1600年に来日して徳川家康の外交顧問となり、江戸城内堀沿いに屋敷を与えられました。その半年後に関ヶ原合戦がおこります。同じ船にはイギリス人のウイリアム・アダムスも乗っていました。胸像の横にはヤン・ヨーステンのの乗ってきたリーフデ号の航海の様子を伝えるパネルがならんでいます。

ヤン・ヨーステン.jpg
ヤン・ヨーステンの胸像

埋め立てられた外堀を東京駅から鍛冶橋(ここには鍛冶職人の住む町に通じる鍛冶橋門がありました)へすすむと、東京国際フォーラムが見えてきます。今は新宿にある東京都庁があったところです。都庁は明治27年までは東京府庁でした。

国際フォーラム.jpg
国際フォーラム

幸橋門内にあった東京府庁が、土佐藩山内家と阿波藩蜂須家家の屋敷跡に移転してきたのは明治22年(1889)年のことです。 5年後にドイツ風の庁舎に建替えられ、当時流行した煉瓦造りの建物の並ぶ通りは煉瓦通りとよばれました。東京駅はイギリス風、設計者の辰野金吾がイギリス人のジョサイヤ・コンドルの弟子だったのに対し、府庁を設計した妻木頼黄はドイツで学んだからです。妻木は日本橋も造っています。

鍛治橋から望む東京駅.jpg
鍛冶橋から煉瓦通りを振り返ると東京駅

江戸城を語るとき、太田道灌の名ははずせません。国際フォーラムには朝倉文夫の手になる太田道灌像があります。
道灌は江戸の町づくりに力を注いだので、家康が入府したときには江戸はすでに、のちに言われるほどの寒村ではありませんでした。

太田道灌像.jpg
太田道灌像
江戸城.jpg
今はない江戸城天守閣の模型

鍛冶橋交差点南から外堀の跡地は高速道路とショッピングセンターになっていますが、カーブした水路をそのまま利用したのがわかります。
有楽町駅前には南町奉行所がおかれていました。
交通会館の地下には発掘で見つかった穴倉や水道管、石垣の石などが無造作に展示され、それと気付かずに椅子として利用されたりしています。

奉行所木管.jpg
木管
奉行所石垣の石.jpg
椅子に使われている石垣の石

有楽町の名は織田信長の弟、織田有楽斎がここに茶室をかかまえたことからきています。茶室と言えば数寄屋造りです。数寄屋橋門は慶長7年(1602)に設けられました。
関東大震災後に晴海通りに移転した昭和の数寄屋橋は、高速道路建設のため外堀の埋め立てに伴って撤去され、橋の欄干の一部が数寄屋橋公園にのこされています。

数寄屋橋公園太陽の塔 のコピー.jpg
公園には岡本太郎の太陽の子の像がたっている、

この橋を渡って城に入る高麗門のあとはいま、朝日新聞記念館になっています。
数寄屋橋公園の隣にあるのは泰明小学校です。
関東大震災後の復興事業として建てられた校舎は昭和初期の立派なつくりです。
銀座にある小学校として人気があり、学区外からも入学を希望する生徒がいて、夜間人口の減った銀座で廃校はまぬがれているようです。島地藤村や北村透谷が学びました。

泰明小学校2.jpg
泰明小学校の贅沢なつくりの玄関

近くにある外堀門の一つ、山下門は、江戸城の城門の中でもっとも小さな門でした。
山下御門から幸橋御門の外堀後は、高速道路とJRの線路になっています。高架下は飲み屋がならび、一歩入った奥路地には最近ショッピングモールがオープンしました。今風の華やかなモールの壁には、大正3年に新橋から東京への鉄道建設時に作られたJRの煉瓦製高架をのこしています。
ちなみに明治27年に新橋を最初に出発した鉄道は横浜までで、東京駅につながったのが大正3年のことでした。

ガード下2.jpg
モール壁には大正の鉄道の名残が。

幸橋門内にあった大和郡山藩柳沢家の屋敷跡には明治元年、最初の東京府庁がおかれました。現在の東京国際フォーラムの場所に移転するまでここにあり、現在は帝国ホテルがたっています。
道路を挟んで、現在東京電力別館になっているところは薩摩藩中屋敷のあったところです。もともとは上屋敷でしたが、外様藩第2の大藩である薩摩藩には手狭になったため、三田に上屋敷を移してここを中邸としたのでした。
9時半に出発して2時間ほど、本日の行程の半分を歩き、お昼は新橋の「板前バル」で。
いかにもエネルギッシュな江戸を感じさせる特性和ランチでした。

板前バル4.jpg
いかにも江戸っ子の好みそうなボリュームたっぷりの和ランチ

新橋の名は汐留川にかかっていた橋の名前に由来します。
花街としては後発でしたが、新橋界隈は各藩の大名屋敷から距離的に都合の良い場所にあったため、公儀の役人や他藩の客人との接待・外交の場として利用されました。
明治に入り、江戸期からの花街柳橋とともに「柳新二橋」と称して人気の花街となりました。明治期に伊藤博文や板垣退助など新政府高官が新橋芸者をひいきにしてその名を不動にしました。出身地の金春通りに隣接する通りに今でも新橋芸者の検番があります。
新橋駅の前は内幸町です。外堀の門の一つ、幸門は外堀が完成した1636年に石垣が築かれました。将軍がこの門を通って増上寺へお成りになるというので、縁起を担いでつけられた名前です。その内側にあるというのが内幸町の名の由来です。
ここから虎ノ門へ伸びる外堀跡は外堀の中でももっともはやく、明治37年に埋め立てられました。今、多くの官庁が立ち並ぶ一帯にはビルの建設工事の折に発見された石垣の石がつまれています。それらの石垣は文部科学省や地下鉄虎ノ門駅構内にも見ることができます。

文科省石垣7 のコピー.jpg
文部科学省に残された石垣。この辺りでは随処に石垣が見られる。

関ヶ原の折、大津城を守って戦功のあった京極家は虎ノ門に上屋敷を構えました。その折、郷里の丸亀領内にあった金刀比羅宮を勧請して屋敷内に建立したのが、広重の浮世絵にも描かれています。
城を攻めた立花氏は武勇に優れていたため、関ヶ原で敗れたのちに、諸藩から復興の嘆願が出され、幕府は立花藩復興を認めたという珍しい経緯があります。
江戸の人口が増えるにつれて、生活用水の確保は大きな課題でした。
江戸時代初期に浄水の水源として利用されたのが現在の溜池山王にある貯水池(溜池)です。
ここに立てば地形的にもいちだんと低い土地であることがわかります。
幕府はその後も神田上水を開き、玉川上水を掘削するなど江戸時代を通じて水の確保に追われました。
溜池は明治には水量も減り、昭和初期には暗渠になって姿を消しました。
この溜池や赤坂を見下ろすように建っているのが山王日枝神社です。
堀の外側には当時日枝神社の下に多くの寺院がたちならんでいました。これらは明治初期に廃寺となり、跡地にはヒルトンや山王ホテルなどが建ちました。

日枝神社 のコピー.jpg
日枝神社(鳥居の三角の屋根は日枝神社にのみ許されたという)

日枝神社は太田道灌が川越から観桜したのがはじまりといわれていますが、もっと前からあったという説もあります。もともとは江戸城内にあったのが、宝暦の大火後に現在地に落ち着きました。 山王祭は神田神社の神田祭と並んで江戸の二大祭になっています。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。