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医史跡を巡る旅 №76 [雑木林の四季]

江戸の疫病 疱瘡神 其の壱

               保健衛生監視員  小川 優

江戸自体の終わりに種痘が広まるまでは、人々が疫病にあらがうことはできませんでした。民衆はただひたすら病気の治癒を神仏に祈り、病魔に取りつかれないようまじないに頼ります。
近代になって顕微鏡が開発され、コッホが「コッホの四原則」を見出すまでは、なにが疫病を引き起こすのかわからず、人々はその原因を色々と想像しました。感染症についてはほぼ病原体が特定された現代ですらその傾向がありますが、宗教的、政治的に疫病の流行を利用し、民人の日々の信心不足や、道徳的不摂生を責め立てることがよくありました。

一方で目に見えないもの、例えば魔、もしくは神が病をもたらす、という考えは古今広く受け入れられてきました。また人であっても、非業の死を迎え、この世に未練があるものは「祟り神」となって現世の人々を苦しめると考えました。以前もご紹介しましたが、京都の祇園祭は恨みを抱いて亡くなった怨霊を鎮めるための、御霊会が始まりとされます。

「祇園祭の粽(ちまき)」

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「祇園祭の粽(ちまき)」 ~京都 長刀鉾

祇園祭の期間中、八坂神社や山鉾のお会所で頒布されます。茅(ちがや)を笹で巻いたもの、すなわち「茅巻」で、疫病除け災難除けとして、門口に飾られます。

日本における民衆支配は武力的もさることながら、呪術的な面によるものが大きかったと言えます。外敵に侵略されることが少なかった半面、地震、噴火、大雨や干ばつなど天災に見舞われることの多い日本では、こうしたものを抑える力が支配者に期待されます。そして祭祀を取り仕切る最高位が、天皇であったとも言えます。神仏ばかりか、不慮の事故や、政争に敗れて無念の死を迎えた者たちは、朝廷に仇なす者となり、疫病や天災をもたらせて、民衆を苦しめるとされましたから、これに勝る霊力が支配者には求められました。

「茅の輪守」

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「茅の輪守」 ~東京都千代田区永田町 日枝神社

江戸開府にあたり、江戸城鎮守として徳川の信心篤かった神社です。初夏と年末の大祓には境内に蘇民将来に因む茅の輪が設置されます。茅の輪守としても頒布されています。

祟り神、怨霊もきちんとお祀りし、鎮めることができれば、その強い霊力によって今度は人々に福を与える存在となります。これを御霊信仰といい、菅原道真を祭る天満宮、平将門を祭る神田明神などがこれにあたります。

「蘇民将来注連飾り」

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「蘇民将来注連飾り」 ~三重県伊勢市

伊勢神宮のお膝元、伊勢市周辺では、注連飾りを一年中門口に飾ります。縄には「蘇民将来子孫家」と書かれた木札が付けられています。素戔嗚尊と蘇民将来の伝承は以前もふれましたが、再度書いておきます。

【あだしごと 蘇民将来】

各地の神社の縁起に記されている逸話で、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が正体を隠して旅をしている途中で日が落ち、見つけた家に宿を乞うた。最初に裕福そうな巨旦将来の家を訪ねたが断られ、次に貧しそうな蘇民将来の家の戸を叩くと、暖かく迎え入れられた。のちに素戔嗚尊が再び訪れて正体を明かし、巨旦将来の家を滅ぼすという。蘇民将来は娘が巨旦将来の家に入っていたため、助けてほしいと頼んだところ、蘇民将来の子孫であることを名乗れば、疫病から逃れることができるだろうと言い残した。

「蘇民将来護符」

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「蘇民将来護符」 ~長野県上田市 信濃国分寺

蘇民将来信仰は広く信じられており、各地の寺社でその名を記したお守りや護符が頒布されています。上田市の信濃国分寺で正月の八日堂縁日で頒布されるものは独特の形で、六角柱の木製柱状をしています。同様の形のものは愛知県津島市の津島神社、兵庫県神戸市の祇園神社に見られます。

時代が下って江戸時代、朝廷による直接支配はとうに終わり、武家による統治が続きます。長い戦乱の世は終わりましたが、相変わらず疫病が人々を襲います。貴族政治を引きずった室町幕府はともかく、江戸幕府は武人政府ですから疫病には現実的な対応を取ります。一方で心の拠所を求める民衆は、新たな信仰やまじないに頼ります。官製祈祷から、民俗信仰に移っていったのです。
疫病は疫病神が起こすものと考え、その疫病神に対する態度は「抵抗」か、「迎合」かに分化します。集落の入口に祠や呪物を置いて侵入を妨げたり、神仏のほか鍾馗や源為朝、加藤清正など豪傑の強さに頼るものなどが前者、疫病神を「招かざる客」「断れない客」と捉え、もてなして早めに機嫌よくお帰りいただこうというのが後者になるでしょうか。特に後者は、前述の菅原道真や平将門といった御霊信仰に通じるものがあります。

「大草鞋」

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「大草鞋」 ~千葉県立中央博物館展示

千葉県富津市関尻地域では毎年2月に大草鞋を作り、街道の集落入口につるす風習があります。集落に入り込もうとする疫病神に、「ここの村には、こんな大きな草鞋を履くような大男がいるぞ。きっとかなわないぞ」との警告だと伝えられています。一方で杉の葉と、藁で作った酒樽も添えて、「この集落の疫病はもう過ぎ(杉)去ったぞ。いまさら来てももううつせる人はいないぞ」と騙したり、「まぁ無駄足踏ませて悪いから、一杯やって帰ってくれよ」と労ったりと、洒落っ気たっぷりにあしらってもいます。
長瀞町長瀞など、同じような習慣は各地に見られます。

さて、もともとが目に見えない悪鬼や、神の姿ですが、どうにか絵や、像にしたくなるのが心情というもの、例えば信仰においても形あるものを対象とするほうが、庶民にとってより納得しやすくなります。
天然痘を引き起こすとされた疱瘡神について、どの様に描かれてきたかを調べてみましょう。

「草津張子 猩々(疱瘡神)」

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「草津張子 猩々(疱瘡神)」 ~滋賀県草津市草津

「昔、天然痘は喪瘡と呼ばれる死病でありまして、特に子を持つ世の親達の恐怖のまとでありました。人々は疱瘡神を祀って病魔退散を祈りました。その禁厭(マヂナイ)に使われたのがこの猩々で衣も髪も疫病伸の嫌う赤色に彩色されています。
守山、草津地方では、種痘をうけた子のある家では、猩々を祀つる独特の風習があります。

カマドの傍に二枚の赤紙を重ねて、猩々とダルマを並べ、アズキ飯と酒を土器(かわらけ)に供へ、夜は二枚の赤紙を布団として、その間に猩々を寝かせ、夜明けとともに起こします。
七日間お守りとして祀った後は、我が子の身替りの猩々をサンタワラにのせて十字路に置き厄払いする習慣であります。これを猩々返しと云われます。」~宇野宗祐著 「緒方洪庵と除痘館」より

疱瘡神は赤を好むという説と、嫌うという説と両方あります。赤色は魔を払うという言い伝えがある一方、疱瘡の発疹が赤いほど予後が良いといわれ、いずれにせよ疱瘡神には赤が使われます。

「疱瘡絵 為朝と疱瘡神」

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「疱瘡絵 為朝と疱瘡神」 ~一勇斎国芳 複製

左に描かれているのが豪傑の平為朝、右側のひれ伏している最前列二人が疱瘡神といわれます。手前で赤餅を頬張っている童と、手形を押した書状を掲げている老人です。ダルマ、兎、犬、ミミズクについては、疱瘡玩具として患児に与えられたもので、いずれまた取り上げます。

「疱瘡老婆さんの石」

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「疱瘡老婆さんの石」 ~神奈川県鎌倉市材木座 五所神社境内

「もとは補陀洛寺裏手にあった「みるめさま」に置かれていた。見目さまの境内にほうそうばあさんの石という石がまつってあって、ほうそうがはやっていると、その石におまいりしたり、石に身体をふれさせると、その災難からのがれられるというので、石をさすったり、なぜたりするものが絶えなかったくらいで、わしらもそんなことをした仲間だネ。」~鎌倉市教育委員会編「としよりのはなし」より

疱瘡神として想像上の生き物や、老人を擬していることがわかります。天然痘という恐ろしい病気の具象化としては、強くて恐ろしい化け物を想像しがちですが、昔の人々は、どうも一見か弱い姿を思い描いていたようです。

集落において直接の祈祷の対象としての疱瘡神は、自然石や石柱に字のみ刻したものが各地に見られます。ところが千葉県千葉市の周辺と、茨城県取手市には疱瘡神を像として石に刻み、道祖神のように祀ったものがあります。

次回は、石に刻まれた疱瘡神をご紹介します。





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