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いつか空が晴れる №94 [雑木林の四季]

       いつか空が晴れる
          -モーツァルトピアノ協奏曲21k467- 
               澁澤京子

 子供の頃、朝ベッドから起きるときに最初に右足から下りるか、左足から下りるかでその日の運命がガラッと変わってくるのだと考えると何とも言えない気持ちになったことがあった。よく兄と遊んだあみだくじでは、一本棒を書き足しただけで進む方向は著しく変わってくる、運命というものはそういうものだと思っていたのだ。小学校で授業を受けている時も、救急車のサイレンを聴くと家人に何かあったのじゃないかと不安になり、消防車のサイレンを聞けば家が火事になったんじゃないかと不安になり、要するに小さい時、私はちょっとしたノイローゼになっていたのだと思う。夜寝るときは心臓の鼓動がいつかとまるんじゃないかとなかなか眠れず、心臓がどきどきすればそのまま爆発?するのじゃないかと考えた。

死というものが常にその深淵をぱっくり開けてところどころに落とし穴の様にあるように思え、人が生きているのは、まるで両側に真っ暗な深淵のある上に通された一本の細い綱を渡ってゆくような心細いものではないか。母が楽しそうに笑っているのを見ても、明日はどうなるのかわからないのになぜ母はあんなに平気で笑えるのだろうか?と不思議に思っていた。

人はいつも一つの方向しか選べないし、一つの方向を進んでいくしかない、時間というものがいつも一つの方向にしか進んでいけないのを、まるで心細い綱渡りのように思っていたのである。

ベッドから下りる時に右足か左足かで悩むって、子供というものは大人が考えているよりもずっと意識的に生活しているのかもしれない。まだ日常生活の営みが大人のように無意識のうちに習慣化されていないからだ。

人の無意識の中にプログラミングされているのは、その人の持っている文化であるとか習慣、あるいはエゴイズムのような欲望が基底にあるものだろう、それらはかなり機械的に(何も考えず)反応するものだ。機械的であるという事は鈍磨していることでもあるのかもしれない。

そういったものがまだプログラミングされていない子供は、おそらく、大人が気が付かないことを考えたり悩んだりするんじゃないだろうか。

強烈に死の不安が続いて眠れなかったある晩、夜中にトイレに起きると、母が一人で起きていて、赤くて分厚い『家庭の医学』をスタンドの灯りの下で読んでいるのが見えた。なんだかその光景はとても心細いものだった。

やがて母の乳がんが発見された。

母は手術の後しばらく入院していたので家にいなかったが、その間に不思議と私の死に対する不安はいつの間にか消えていた。

大人になってから、子供の時のあのような強烈な不安は経験しなくなったけど、時間は不可逆で一本の綱渡りのように一方向にしか進まないと言うのが、何か人間に課せられた刑罰のようなものだという感じは今も変わらない。あみだくじのような迷路を歩いている私たちには私たちが何をしているのか、どういう場所にいるのかはさっぱりわからないけど、もし神がいたらあみだくじの全体を鳥瞰する視点を持っているのじゃないだろうか。そして人は時には思いがけず鳥瞰する視点を持ってしまうことがあって、それを洞察とか直観、インスピレーションと呼ぶのじゃないだろうか?

『みじかくも美しく燃え』は、青年将校とサーカスの綱渡りの少女が心中するスウェーデン映画。(実話を元にした映画)

全編にモーツァルトのピアノ協奏曲21番が流れ、逃避行の合間に少女が時折、木と木の間にロープを張って綱渡りの練習をする姿がいじらしい。

追い詰められた二人は美しい自然ときらめく陽光の下、ピストルで心中する。

私はこの映画を子供の時に見た記憶がある。そして、よく晴れた、輝くような陽光の中でも人は死ぬことがあるのだというのは、まるで一つの明白な真実のように私の心の中にある。

そして、人が生きていくのは綱渡りのようなものだというのは、私の不安な子供時代の妄想ではなくおそらく事実なのであって、ただ大人になれば、みんな惰性の日常を送っているうちに気が付かなくなっているだけなのだと思う。




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