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多摩のむかし道と伝説の旅 №50 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

                          多摩のむかし道と伝説の旅
             -松姫と童謡「夕焼け小焼け」ゆかりの案下道を行く-1

              原田環爾

 案下道とは昭和30年代以前の陣馬街道の古い呼び名である。現在の陣馬街道はJR中央線西八王子駅の北側に並行する甲州街道の少し東寄りに位置する三叉路「追分」を起点に甲州街道から分かれ北西に進み、日吉、横川、叶谷、四谷、諏訪、弐分方を経て切通しで大きく西へ折れ恩方へ向かう。恩方に入ると北浅川沿いに川原宿、松竹、佐戸、駒木野、力石、夕焼け小焼け、関場を経て高尾山稜西端の陣馬山の山麓のバス停終点「陣馬高原下」に至る。その先は和田峠を越えて相模湖畔の神奈川県津久井郡藤野へ至る道筋だ。
 一方かつての案下道は概ね現在の陣馬街道に重なるものの、一部に於いて違っている。例えば追分から切通しまでの道筋は今は直線的に改修されているが、以前は出入りのある道であり、そのため各所に旧道が残されている。更に切通しから川原宿の間ではとりわけ大きく異なる。即ち現在は切通しで大きく西へ直角に折れ、そのまま川原宿迄直線的に進んでいるが、かつての案下道は切通しで曲がらず、そのまま北へ進んで北浅川を渡って、西寺方の山裾を迂回する道筋を辿って川原宿に至っていた。江戸時代、江戸と甲州を行き来する旅人が監視の厳しい小仏関のある甲州道中(旧甲州街道)を避けて利用した道筋と言われ、そのため甲州裏街道、又は甲州脇往還とも呼ばれた。また終着点の藤野が旧佐野川村であったことから佐野川街道とも呼ばれた。

案下道1-1.jpg

 歴史的な観点から案下道を眺めれば、案下は中世の豪族大石氏の地盤であり、また戦国末期には信玄息女松姫が甲武国境を越えて案下落ちした所で、下恩方の心源院や上恩方高留にあった金照庵は松姫ゆかりの寺である。そのほか童謡「夕焼け小焼け」で知られる詩人中村雨虹の故郷でもある。
 案下道は曲がりくねってはいるが、急峻な峠道を除けば概ね平坦で道幅もあり車も少ない。それに何といっても北浅川の流れを挟んで展開する山懐の風景が素晴らし。特に新緑の季節や紅葉の頃の美しさは言葉では言い表せないほどで、何度訪れても飽きることはない。今回は西八王子駅から追分に出て、そこからバスの終点「陣馬高原下」迄の案下道を辿ってみたいと思う。
 西八王子駅北口から右手東回りで甲州街道に出る。これより案下道(陣馬街道)の起点追分へ向う。信号を渡って北側の歩道に回る。馬場通りを左にやり銀杏並木の甲州街道を東へ向かう。街道を挟むこの辺り一帯は千人町といい、江戸時代、千人同心を束ねた千人頭達が居住した所だ。程なく御所水通りと交差する。御所水通りとはここから南約1kmの所にある富士森公園辺りを古くは御所水と呼ばれていたことによる。なお御所水という地名は南北朝時代、南朝方の高貴なお方が落ちのびてきたという落人伝説に由来する。また戦国末期、甲斐から案下落ちした信玄の娘松姫は、この御所水の地に武田の旧臣である千人同心達に守られて居住したと伝えられる。
案下道1-2.jpg 御所水通りを横切り雑木の繁る高札場跡を左にやると、程なく案下道の甲州街道からの分岐点追分に至る。追分には甲州街道を跨ぐ陸橋の袂に派出所があり、その傍らに、高さ2m程の大きな石の道標が立っている。追分の道標と呼ばれるもので、道標には『左 甲州道中 高尾山道』『右 あんげ道』『千人町 江戸 清八』と刻まれている。傍らの由緒書によれば、道標は文化8年(1811)江戸の清八という足袋屋の職人が高尾山に銅製の五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の3箇所に立てた道標の一つという。道標は先の戦争の八王子空襲で4つに折れ、一部は行方不明となったが、新しく石をつなぎ合わせて復元されている。
 追分を左に折れ案下道に入る。すぐ案下道から左へ入る街路が分岐する。案下道1-3.jpgその分岐点の一角に『八王子千人同心屋敷跡記念碑』と刻まれた石碑が立っている。傍らには由緒書があり、千人同心の成立の経緯や組織と公務、千人頭・原胤敦による蝦夷地開拓の苦難の歴史、幕末の千人同心の苦闘と千人隊の解体などが詳しく記載されている。すなわち天正18年(1590)豊臣軍の猛攻により八王子城は陥落し、城内の守備兵は全滅した。落城で騒然とする八王子城下の治安を回復するため、徳川家康は武田信玄の遺臣で治水や土木、経済に明るい大久保十兵衛長安を八王子代官に採りたて治安回復にあたらせた。長安は甲州の国境警備をしていた小人衆を八王子に配置し、更に武田や北条の遺臣を集めて慶長4年(1599)千人同心を組織し治安回復に努めた。千人同心の組織は、一隊100人の十隊編成でそれぞれに千人頭を置き、各100人は更に十組に分け、それぞれに組頭が置いた。すなわち頭10人、組頭100人、同心900人を定員としていた。彼等は千人町に居住し、普段は農民として田を耕し、一朝ことある時は武士として戦場へ赴く、いわゆる半農半士という特異な身分であった。千人同心の事績には蝦夷地開拓の他色々あるが、中でも最大の功績は徳川家康を祀る日光東照宮を後世に遺したことである。江戸時代を通じて彼等の重要な任務は日光勤番であった。すなわち「日光火の番」として榛名山や男体山から吹き降ろす強風による火気の危険から東照宮を守り抜くことであった。俸禄は極めて低かったが、武士としての名誉と誇りに生きた人達であった。(この項つづく)


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