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論語 №107 [心の小径]

三三五 子のたまわく、邦(くに)道有れば言(ことば)を危(たか)くし行いを危くす。邦道無ければ行いを危くし、言孫(したが)う。

             法学者  穂積重遠

「危」を「けわしく」とよむ人もある。
 孔子様がおっしゃるよう、「国が治まって道が行われている場合には、正しいと信ずるところを遠慮なく言い断固として行う。国が乱れて道が行われない場合には、正しさを行うべきは少しも変りがないが、言葉は当りさわりないよう注意せねばならぬ。」

 これは相当議論のあるべきところで、孔子様もけっして盲従的大勢順応をよしとされるのではあるまい。いかなる場合にも言うべきだけのことは言わねばならぬはずだが、実際上言いがいのある場合もあ。ない場合もあり、無益の波瀾(はらん)を起し思わぬ舌禍筆禍を招いてもつまらぬ次第故、物を言うには時と場合の見はからいがたいせつであることは間違いない。
 古註に、「君子の身を持するは変ずべからざるなり。言に至りては、すなわち時ありて敢えて尽さず、以て禍を避くるなり。然ればすなわち国を為(おさ)むる者、士の言をして孫ならしむるは、あに殆(あやう)からずや。」とあるのを読むと、戦争後期のわが国に正にあてはまるので、苦笑の外ない。

三三六 子のたまわく、徳ある者は必ず言あり、言ある者は必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり、勇者は必ずしも仁あらず。

 孔子様がおっしゃるよう、「徳のある人には必ず善い言葉がある。なぜならば、心中に蓄積された盛徳がおのずから外にあふれ出て言葉となるからだ。しかし善い言葉のある人が必ずしも徳のある人ではない。なぜならば、言葉はその人の真情から出るものとばかりは限らず、口先のみのこともあるからだ、仁者は必ず勇者である。なぜならば、心に私なく正義を断行するからだ。しかし勇者は必ずしも仁者ではない。なぜならば、勇には正義によらぬ血気の勇もあるからだ。」

三三八 子のたまわく、君子にして仁ならざる者はあらんか、未だ小人にして仁なる者
はあらざるなり。

 孔子様がおっしゃるよう、「君子は常に仁を志すが、まだ聖人のごとく円満具足の域に達してはいないから、時には知らず識らず不仁に陥(おちい)る者があるかも知れない。しかし小人は元来が仁に志さぬのだから、仁者であり得るはずがない。」

三三九 子のたまわく、これを愛しては能(よ)く労せしむることなからんや。これに忠にして能く誨(おし)うることなからんや。

 孔子様がおっしゃるよう、「人を愛する以上、これに苦労をさせてその人物を鍛えないでよかろうか。人に忠実である以上、これを教訓し忠告善導しないでよかろうか。」

 前段はいわゆる「かわいい子には旅をさせろ」の意味。後段の「忠」を「君に忠」の意に解する人もあるが、前段との続きからも、また「誨」の字からも、やはり子弟友人の意に解するがよかろう。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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