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批判的に読み解く歎異抄 №15 [心の小径]

本願ぼこり(造恵無碍・第十三条)の問題

       立川市光西寺住職  寿台順誠

(3)唯円が「本願ぼこり」(「造悪無碍」)を擁護することに理由があるとすれば、それは何か?

 この「制禁」にはとてもよいことも書かれていると思います。例えば、(7)一、師匠なればとて、是非をたださず弟子を勘当すべからざること」などと師匠の権力を抑制していますよね。それから、(9)一、同行のなかにおきて、妄語をいたし、うたへまうすといふとも、両方の是非をききて、理非をひらくべきこと」、つまり「両方の言い分をよく聞いて公平に扱え」と、これも悪いことは言ってないと思います。(11)一、念仏勤行のとき、男女同座すべからず」などというのは時代的に限界のあるもので、今日のこの席などは当時であればアウトでしょうね。現代ではもうこんなことを言う意味もないことですし、「みだりになるべきゆゑなり」が何を指すかわかりませんが、当時は「みだりに」なったという事実はあったのでしょうね。また、(12)一、かたじけなきむねを存じて、馬の口入(=売買の斡旋をすること)、人の口入すべからざること」ともありますが、念仏道場へ来て「馬の口入」やまして「人の口入」などされても困るよねってことだと思いますね。また、(13)一、あきなひをせんに、虚妄をいたし、一文の銭なりともすごしてとるべからず。すなはちかへすべし」というのもよいこと言ってるじゃないですか。詐欺みたいなことをやって人から鏡を取っちやいけないって言うのですから。(14)一、他の妻をおかして、その誹誘をいたすこと」などは意味が分かりませんが、そんなこともあったってことでしょうね。また、(15)一、念仏者のなかに、酒ありてのむとも、本怪をうしなひて酒くるひをすること。」 やはり酒狂いはよくないですから、こんなことを「制禁」で言ったっていいんじゃないですかね。(16)一、念仏者のなかに、ぬすみ、博奕をすること」もよくないことですから、こういうことはいけないよって言っちやいけないんですか
ね。最後に、(17)一、すぐれたるをそねみ、おとれるをかろしむること」などはしてはいけないと言っていることもよいことを言ってると思いますね。
 さて、唯円はこういうものを貼るのは、「賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるもの」だと批判しているわけです。確かに中には、「男女同座すべからず」のようにもう時代遅れのものもあるけれども、全体としては結構よいことを言っていますね。また、こんな「制禁」があったってことは、やっぱり倫理道徳に反するようなことが行われ、顰蹙をかっていたということがあったのだろうと思うんです。だから「制禁」を貼り出したのはそんなに変なことじゃないと私は思っています。少し穿った見方かもしれませんが、博奕、他人の妻を犯すこと、馬や人の口人など、そういうことをしたい人が、自分の自由にできるように「制禁」など貼るなよ、と『歎異抄』は言っているのではないかとさえ読めるのではないでしょうか。そんなことから、私は『歎異抄』はあまりにも持て囃されてきましたが、実際の効果はむしろ、単なる道徳の破壊や「造悪無碍」の助長にしかならなかったという問題があるのではないかと思います。これが『歎異抄』のもっている倫理道徳的な問題点で、それが三条と十三条に集中的に現れていると思います。しかも、三条・十三条は『欺異抄』の中でも一番の売れ筋、一番人気のある箇所ですよね。ここがあるから『歎異抄』は素晴らしいと、よく言われるわけですが、私はそのようには評価していないと申し上げておきたいのです。特に三条と十三条はよくない箇所だと私は思っています。勿論『歎異抄』にも他によいところ、採るべきところは結構有るんです。が、それはまた機会があれば申し上げます。

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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