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渾斎随筆 №67 [文芸美術の森]

平泉行き 3

              歌人  会津八一

            三          

 十九日に仙臺から歸ってみると、中村屋の三階では、私の古稀祓ひの行事の一として、明日から開くといふ同人諸君の善畫展の準備で大騒ぎをやってゐた。
 内容は、だいたい前にいつたやうなものだが、出品に、日夏秋之介、西川靖庵などが加はつてゐた。二十二日まで三日間に、来観者は二百人あまりで、その中には、大學の先生たちとか、文藝の方面の人たちが多かった。去年はやって来た井上正夫君は、もう来ない。毎回やって来る斎藤茂吉君も来ない。最近だいぶ弱ってゐるといふことだ。
 少し方面のちがふのは、私の個展にはいつも缺かさない、もとの内務大臣の湯澤三千男君。この人は例の如く三日間に二度までやって来て、ゆるゆる話していった。それから大蔵大臣をやつた石橋湛山君が来た。
 やあ何十年ぶりでせうと、彼がいふ通り、随分久しいものであるが、遇ふやいなや議論になった。「中央公論」でのご説は拝見して、大燮に面白かつたが、昔の公卿や他國の支那人の書いたものばかり習ってゐてはいけないといふご説は、なるほどと思ふが、そんなら、それからさきは、どうすればいいのか、そこのところが教へてない。うかがひたいのは、その教へてないところだ。といふから、それはかうするのだと、一應、私の書道論と手習法を講釋しておいた。湯澤君や、ほかの人たちも、わきでそれを聞いてゐた。
 新聞人としては、城戸元亮君もやって来て芳名帖に名を遺していったが、私は遇はなかった。この人は、われわれがお互に、まだ三十代のころ、彼は試験に合格して初めて「毎日」にはひつた。その頃、どこかで一度遇っただけだのに、よく覚えてゐて、来てくれたものと見える。
 先日新潟へ来て、萬松堂の二階で馬の繪を列べるといって、梯子をふみ外して、大怪我をした山内保次君もやって来て、特色のある笑顔を見せてくれた。もうすつかりよろしいさうだ。
 この邊は、私とは、年がたいてい似たりよったりのところだが、場内を何度も行きつ戻りつして、私に行き遇っても、わかるやうで、わからぬやうで、妙な顔つきをした一人の老人があった。あとで芳名帖を見ると、古文書學者の三成重敬君であった。
 いつまでも童顔で、髪は漆黒で元気な人であったのに、あんなにまで燮るものかと、こちらで驚くやうに、こちらもまた、あちらの目には、燮りはててゐるのであらう。もっともこの人は、私などより五つ六つも年上でずつと前に、正倉院の中などで逢ふと、會津さんのお弟子は、みんな危険思想ばかりだと、世間でいふぢやありませんかと、私を冷かしたりしたものであったが、もう、そんな皮肉をいったりするのも、うるさくなったのであらう。
 二十二日の晩、この展覧會を取片づけて、翌晩は、同じこのホールで青野季吉君の還暦の戒宴が開かれた。私は自分の歌集出版の相談で、中央公論の人たちと、下町のある所へ、飯を食ひに出かけたので、列席が出来なかったが、歸って聞けば、なかなかの盛會であったさうだ。
                                  『新潟日報』夕刊昭和二十五年三月二十八日


『会津八一全集』 中央公論社


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