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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №37 [文芸美術の森]

第七章『小説なりゆくなれのはて』

        早稲田大学名誉教授  
川崎 浹

終の棲家を追われて

 いわゆる六〇年代は体制に対する若い芹の反抗が貰的にひろがった時代である。米国のヒッピー族と呼ばれる若者たちの出現はベトナム反戦運動、黒人や女性解放運動に連帯する。
 日本の六〇年代は高度経済成長期であり、それを基盤にした体制構築が六四年のオリンピック・デモンストレーションの形をとった。同時に反管理・反体制撃が全国の大学や研究関連施設で生じた。教育関係だけではなく炭坑まで引きこんで日本全国あらゆる領域で闘争が生じた。
 大学教員は「お前」呼ばわりされ、研究室なるものの多くが破壊された。ひと口でいえば六〇年代は反抗の時代だった。
 闘いは七〇年代にもちこされ、それは七〇年四月の赤軍派によるよど号ハイジャック事件を起こさせた。七二年の浅間山荘事件では反体制活動派の内ゲバ・リンチ事件がさらけだされる。
 遁世者の高島野十郎も、資本が怪物的に増大する高度経済成長期の津波をまぬがれることはできなかった。そしてかれ自身が気づかぬまに、経済成長と環境破壊に反抗するヒッピー役を演じることになる。
 その高島さんが昭和四十五年(一九七〇)九月十日、大学の私の部屋を訪れてきた。六〇年代の後半には、いつしか私も時代にまきこまれて執筆や翻訳で多忙をきわめ、一専任教員としても、大学当局と学生側にはさまれ進退を念頭におかねばならぬ時期があった。
 八月末に日米安保条約が自動延長され、その直前に平壌らいちょう、市川房枝らの「七〇年安保廃絶宣言」が出されたばかり、休み明けとはいえキャンパスは騒然としていた。
 いきなり、背広を手にネクタイ姿の高島さんが、いつもドアを開けっ放しにしている私の研究室の戸口に現れた。「いやあ、ずいぶんと広い構内だなあ。あっち、こっちと探しまわったよ」。私は驚いて椅子から立ち上がる。「池袋からお宅に電話した。そしたら今日はあなたは授業の日だとお母さんが仰って、私の原稿も大学に持って行ったと。それでこちらに来た」。「でしたらお電話くださればお迎えにあがったのに。母は電話番号を先生に知らせなかったのですか」。「大学がこんなに広いとは思わなかったので」。「それに、ここは立て看板や横断幕があって、人も多いし、方向が掴みにくい所ですからね。まあ、おかけください。お茶でも入れますから」。「学生たちはなにやら騒々しくやっているね」。こんな会話をかわしながら、私は高島さんが先だって私に渡してくれた原稿『小説なりゆくなれのはて』を受けとりにきたことを知る。私は家で読みおえず、鞄に入れて持ち歩いていた。
 土地を苦労して探しあて、畑を耕し丹精こめて蓮池を造ったその増尾のアトリエが、大規模な団地造成のために大手企業から立ち退きを求められた。
 立ち退き問題では高島さんが「団地屋」を手こずらせているが、画家自身も窮地に立たされてるのではとの印象を持つ。他か暇さんはいよいよ姪の斐都子(ひずこ)の夫田場川弁護士に依頼して、問題の決着を法定で争うことにした。ついては原稿の手記が裁判資料として焼くにたつなら提供しようと思うとのこと。
 私も次の授業まではたっぷり時間があった。開けっ放しの外の廊下では学生や教員が往き来刷る。なかにはちょっと顔を覗かせ挨拶してゆく者もいる。きゃんぱすからはメガホンや拡声器の音声がさざ波のように聞こえる。本棚には本がぎっしり詰まったいた。アカデミックな雰囲気というより、なにかと賑やかな大学なので、高島さんの疲れも去り、頬もゆるんで笑いがこぼれるようになった。
 じっさい、高島野十郎は笑うことの好きな人だった。九州人の諧謔とは別に、笑いの質がどうやら私と似通っていたらしい。私に話してくれることはこちらも愉快な笑いで受けとめたし、私の言動もかれを興がらせた。陽気な話をしているうちに、あっというまに時間がすぎ、あやうく授業にくいこみ、学生たちを少し待たせることになった。高島さんは「いや、うっかりした。私も明日は弁護士と打ち合わせがあるし、早く帰らねば」と言って立ち上がったので、バス停の方向を指し、学生の波に従って商店街の小路を行けばいいですよと教えた。

 高島野十郎は昭和四十二年(二九六七)八月から昭和四十五年(「九七〇)にかけて体
験した事実を『小説なりゆくなれのはて』という題の手記に残している。昭和四十二年は大学紛争のさなかにあり、拙訳サヴインコフの『テロリスト群像』が刊行された年でもあった。そしてこれは多くの学生たちに読まれ、昭和四十五年四月の赤軍派にハイジャックされたよど号に実行者たちが読み捨てていった本でもある。

 『小説なりゆくなれのはて』は便せんにボールペンで書かれているが、四年間のメモの中から開発業者との闘いというひとつの主題にしぼってまとめられたものである。高島さんが手記として残したものに、増尾のアトリエを建てたときの大工や地主とのいきさつを書いた『増尾高島画室縁起』があり、これは個人的な出来事を示している。
 それに比べると『小説なりゆくなれのはて』は、近郊化の波が押し寄せる時代の動きにゆさぶられる個人対社会の大きな意味をかかえている。
 高島野十郎は開発と伐採に終の棲家を追われて絶滅する鳥獣類の代弁者となる。かれは姿を消す生類のなりゆくなれのはての記録を残しておきたかった。大組織に立ち向かうドンキホーテの自嘲とともに、義憤とも鬱憤ともつかぬ言葉にならぬ全身の怒りをかれの絵画の技法とおなじく写実的に文章に綴った。
 記録を残すのは自分のためでもあるが、小説と銘打つ以上は読者を想定している。かれは身近に「作家くずれ」の私がいたので、原稿を読んでもらうことにした。それは私が『小説』を多くの読者に公開することを意識下であろうと前提にしていたと私は判断する。
 とはいえ実は現在の私は『小説なりゆくなれのはて』の内容を殆ど忘れていた。そこで真っ白な頭でもう一度最初から接することになった。『小説』の全編は長いので一部省略して引用する。「小説」として書かれたためだろう、固有名詞は仮名にされているものも少なくない。基本的に原文にしたがったが、引用の際に一部を変更した。
 高島さんの文章は、登場人物の発言が「」で括られていないので、読者には読みにくいと思われるが、たとえば樋口一葉の『たけくらべ』のように、逆にかえって趣のある文章になっているので、原文のままにした。ただし「」のあるものもあり、それはそのままに残した。
 ▲は私のコメントである。

「過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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