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雑記帳2020-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

2020-10-15
◆近世日本画壇を牽引した狩野派と長谷川派の相克~その時、京都画壇は戦場だった!?

10月に入り、GoToトラベル東京発着も解禁となり、最初に出かけたのは京都。講師とともに2日間で、狩野永徳と長谷泡等伯の絵を探して7つの寺院を巡りました。

いったい、桃山時代というのはいつをさすのか。一般には、信長が室町将軍を追い出し、家康が将軍になるまで(1603)も30年間をいいますが、関西では少し違って、1615年、大阪夏の陣で豊臣家が滅びるまでをさすようです。さすが太閤びいきですね。

信長と秀吉が活躍した時代を「織豊時代」と呼ぶのにならうと、「安土桃山」は「安土伏見」と呼ぶべきではないのか。秀吉が建てたのは桃山城ではなく伏見城だからです。

伏見城は玄和元年、豊臣家が滅びると同時に廃城になりました。
城内にあった多くの建物はとり壊されたり、京都の他の寺普請に使われました。
消滅した伏見城のあとに桃の木が植えられて、伏見の丘は花見客でにぎわうようになりました。なるほど、当時は金の産出量が一番多かった時代、桃の華やかなイメージは金箔と相まって、のちに名付けられた「桃山時代」にふさわしいですね。
この時代に活躍したのが2人の天才絵師、加納永徳と長谷川等伯でした。

等伯は七尾畠山氏につかえる奥村姓の武士ながら染物屋の長谷川家の養子になりました。対する狩野家は狩野川上流を治める頼朝の家来、出自は伊豆です。

室町将軍のお伽衆を務める中で絵の旨い狩野元信が狩野派の祖となり、数えて4代目が永徳です。

等伯は1572年、31歳の時、養父母が相次いで亡くなったのを機に、息子久蔵とともに七尾を出て京都にやってきます。染物屋は絵心が無ければ務まらない職業でしたから、養子として修業するうちに絵の才能を開花させたのでしょう。
ときのお抱え絵師集団のリーダーである元信が自ら手ほどきしたという永徳に、等伯は強い対抗意識をもっていたようです。

51歳のとき、等伯は大徳寺山門の天井画を描いています。大徳寺の山門を増築したのは千利休です。利休も法華宗信徒であり、等伯と利休の強い係わりを示すものです。

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南禅寺山門 等伯の天井画ががある。

利休は茶人としてだけではなく、権力者とも強い結びつきがありました。
等伯は利休の美意識にあわせて、画壇にのしあがっていきます。

1591年、秀吉の嫡男、鶴松が亡くなると、秀吉は祥雲寺の造営を開始します。
寺の障壁画を誰がまかされるのか。その前年に永徳を失った混乱に乗じて勝ち取ったのは長谷川一門でした。

ところが、京都・智積院に遺る祥雲寺障壁画の制作の最中に、将来を嘱望されていた久蔵がわずか28歳で急死してしまいます。等伯の失意はいかばかりだったか。一説には毒殺ともいわれています。

利休の美意識に合わせていた等伯でしたが、利休亡きあとは利休好みを離れ、秀吉好みの英徳風の画風を駆使して精力的に活動を続け、家康の求めに応じた江戸へ向かう途中、1612年、72歳で没しました。

最初に訪れたのは堀川通を左に入った妙蓮寺です。

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妙蓮寺山門

堀川通を挟むこの一帯は、秀吉の街づくりで法華宗の寺が多く集まっています。
法華宗は禅宗と違い、町衆の信仰をあつめました。すぐそばには西陣の町です。

法華宗と等伯の関係は深く、等伯が七尾を出て最初にわらじを脱いだのが妙蓮寺に近い、法華宗の本山、本法寺でした。

妙蓮寺には長谷川派の42面の障壁画があります。
モダンな雰囲気の「鉾杉図」は、エリザベス女王が訪日の折、どうしても見たいという女王の意向を受けて、東京まで運んだそうです。
等伯の「松桜図」は金地に力強い松と桜の花びらが描かれています。松は画面の外から身をのりだすように大胆に、花びらはち密に。

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長谷川派 鉾杉図
妙蓮寺等伯松桜図.jpg
長谷川等伯「松桜図」

厚みのある桜は長谷川派の特徴で、厚みを増すために胡粉をまぜているのです。
本来襖絵には不向きで、保存も難しい技法をあえて選んだ京都文化の凄さを示しています。胡粉ののりは米のり、甕に入れて30年たって弱くしたのを使う、100年たてば粘着力はさらに弱くなるので修理する。日本の絵は描く側も100年先の修理を見越して描いている、そこが奥の深さだというのです。勿論、修復の糊も30年寝かせたものでなければなりません。

大徳寺の多くの塔頭の中で、聚光院には永徳とその父親、松栄のふすま絵が38点あります。オリジナルは保存のため京都国立博物館に寄託されました。

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聚光院

聚光院は永禄9年三好長慶の菩提を弔う寺として建立されました。利休が檀家として資材をよせたことから、三千家の菩提所となっていて、有名な利休の八窓の茶室もみることができます。
永徳24歳の作「花鳥図」は、力強い梅の巨木に勢いよく直行する雪解け水、飛ぶセキレイに視線を合わせる岩のセキレイが描かれています。モチーフを拡大して協調する永徳独特の手法はエネルギーにあふれています。七分咲の梅は信長へのオマージュだといわれています。ルーブルの「モナリザ」が日本に来た時、交換されたという襖絵です。

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狩野永徳「花鳥図」

中国の士丈夫が身に着けるべきとされた4つの芸を描いたのは「琴将書画図」です。

「竹虎遊猿図」「瀟湖八系図」は父、松栄の作で、親しみやすく穏やかな表現は、永徳よりもタッチが柔らかく、親子でも個性に違いがあるのがわかります。

妙心寺塔頭の一つ、天球院には、重要文化財の襖絵56面と、杉戸絵16枚があります。こちらもオリジナルは京都国立博物館に寄託されていますが、永徳の弟子、狩野山楽・山雪の「竹に虎図」があります。

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狩野山楽「竹に虎図」

山楽は永徳の養子、山雪は山楽の娘婿という関係、永徳との血縁関係はありませんが、永徳の実子や孫が家康について江戸に移ったのに対し、京に残って京狩野派をたてました。

扁平な雲の輪郭線、画面に収まりきらない勢いのある画風は永徳譲りで、江戸初期の桃山の雰囲気を残しています。京画は永徳の美意識を素直にうけついでいるのを誇りとし、同じ永徳の流れを汲みながら徳川の美意識に染まった探幽を終生、江戸画と呼んできらっていたということです。
それにしても京と江戸、両方の狩野派をならべると、なんという豊饒さでしょうか。

最も奥の部屋には一転して、中国の文人を描いた「山水人物画」の墨絵があります。山雪の多才ぶりを示すもので、一番位の高い部屋に墨絵を置くという発想は、それまでの着色こそ最高と言われた格式の伝統をうちやぶるものでした。
そして、襖絵は、四隅が直角の部屋の中で座って鑑賞するもの、平面的なタブロイドとはちがいます。画家はそれを計算にいれて、座った目線で描いたのだと学びました。

秀吉の長男、鶴松の菩提寺として造営された祥雲寺を飾り、秀吉の期待に見事にこたえた長谷川等伯と一門の名は天下に知れ渡り、狩野派と並ぶ地位と名誉を得ることになりました。
祥雲寺の後身、智積院には桃山時代の最高傑作と呼ばれる、等伯の「楓図」や久蔵の「桜図」ほかの国宝が残されています。 総金地に浮き桜の「桜図」を描いた久蔵はこの後、急死するのでした。

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長谷川久蔵「桜図」

都の北方、一乗寺にある曼殊院門跡は、小坊ながら代々の僧主が皇室ゆかりという、格式の高い寺です。小さな桂離宮とも呼ばれています。
ここでは永徳伝の襖絵「竹虎図」の本物を、退色もあって必ずしも保存状態がいいとは言えませんでしたが、まじかに見ることができました。
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曼殊院

応仁の乱で破壊された南禅寺を復興したのは、江戸初期、家康以下徳川三代にわたって黒衣の宰相とよばれた金地院崇伝です。 それゆえ、大伽藍の南禅寺の塔頭の中でも金地院はもっとも格が高いのです。小堀遠州の「鶴亀の庭」「八窓の茶室」も有名です。

小書院の「猿猴捉月図」は「老松」の図と並んで等伯の作品です。

修復なった猿猴の図は、片手で松の木の枝に捕まった猿が水面の月に手をのばす様子が描かれています。4枚の襖絵は真中で直角に折れて奥行が生まれ、猿の動きがよりダイナミックに感じられます。 見る者の目線と室内を計算に入れた画は、展覧会場ではなく、襖絵として使われてきた部屋に座って初めてわかる醍醐味でした。 

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等伯「猿猴捉月図」

南禅寺の中でも「御所」と呼ばれる本坊には、桃山前期の、数多くの狩野派の障壁画が残されていましたが、殆どが収蔵庫に保管、デジタル撮影した画像を元に、江戸初期から中期の色合いで復元したものを公開しています。 書院を巡って探幽の「群仙図絵」や「群虎図」(これだけ実物)などを見ることができます。

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南禅寺本坊
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永徳筆「群仙人図襖」

狩野派も江戸へ入った探幽の時代になると、桃山時代の、画面からせり出すような躍動感が消えていきます。二条城に代表される探幽の絵は、雲も木も、画面の中に納まる徳川の美意識でした。

豪華賢覧、目くるめくような桃山の30年、等伯や永徳の壮大な実験は、それを許した権力者や後援者がいた社会を映していました。

せっかく京都に来たのだから、一度くらいは京都の味をと、2日目の昼食は宝ヶ池の近く平八茶屋で麦飯とろろ膳をいただきました。

平八昼.jpg
平八昼2.jpg

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