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医史跡を巡る旅 №75 [雑木林の四季]

江戸の疫病 後篇

              保健衛生監視員  小川優

江戸のはやり病として前回までに、天然痘、麻疹、水疱瘡、インフルエンザを取り上げました。主に子供が罹り、逃れようのない「定(さだめ)」を感じさせる感染症ですが、今回扱う病は全く趣が異なります。

江戸時代、人間の欲望を糧に、都市部で遊郭を中心に広がっていたのが黴毒・かさ。つまり梅毒です。
天然痘、麻疹、水疱瘡、インフルエンザはいずれもウイルスを原因とした感染症ですが、梅毒はらせん菌(スピロヘータ)の一種、梅毒トレポネーマが病原体です。細菌ですから、ウイルスに比べれば対抗する物質、根治治療薬を見つけやすく、かなり早い時期から治療が行われてきました。とはいえ最初の頃は試行錯誤の連続で、一時期主流であった水銀療法は、連用によって重度の水銀中毒を引き起こし、副作用の弊害が大きかったと考えられます。
すこし時代が下って1910年、ドイツのエールリッヒが「606号」と名付けたヒ素剤が梅毒に有効であると証明します。この物質はのちに、救世主を意味するSalvatorと、ヒ素を意味するarsenicから、サルバルサンSalvarsanと名付けられます。

「サルバルサン」

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「サルバルサン」内藤記念くすり博物館展示 ~岐阜県各務原市川島竹早町

この時、エールリッヒを手伝ったのが、当時ドイツに留学していた秦佐八郎。秦佐八郎といい、北里柴三郎といい、西洋医学を学び始めて数十年余の東洋の小国出身者が、世界的研究に極めて近い位置にいたということは、素晴らしいことです。

「秦佐八郎墓」

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だし「秦佐八郎墓」 ~東京都府中市多磨町 多磨霊園

【あだしごと 秦佐八郎】
明治6年(1873)、島根県美濃郡(現益田市)に生まれる。豪農の八男として生まれ、14歳の時に医家の秦家に養子として迎えられる。私立岡山薬学校を経て、明治28年(1895)第三高等中学校医学部卒業。一年間の兵役の後に岡山県病院助手となり、明治31年(1898)北里柴三郎のいる伝染病研究所に入所する。明治37年(1904)には日露戦争に軍医として従軍、翌年には帰還兵の検疫のために、後藤新平の指揮のもと設置された広島の似島検疫所に従事する。除隊後、伝研に戻り明治40年(1907)からドイツに留学する。
最初ロベルト・コッホ研究所で、梅毒の検査法として用いられるワ氏法を開発したワッセルマンのもとで免疫の研究をし、次いでエールリッヒの国立実験治療研究所で、梅毒治療薬の動物実験に携わる。1910年その効果が発表され、サルバルサンとして製造販売が開始、秦は同年帰国する。
帰国後、伝研に復帰、大正3年(1914)の伝染病研究所文部省移管に伴って北里とともに辞職、北里研究所を設立する。当時医薬品はその多くを輸入に頼っていたが、第一次世界大戦勃発によりドイツからの輸入が途絶したため、医薬品の国内生産を進める。大正9年(1920)、慶應義塾大学医学部教授に就任。昭和6年(1931)、北里柴三郎の死去に伴い、北里研究所副所長に就任。昭和13年(1933)、脳軟化症のために65歳で死去。

「国産サルバルサン」

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「国産サルバルサン」内藤記念くすり博物館展示~岐阜県各務原市川島竹早町
ただし画期的な治療薬とされたサルバルサンも、ヒ素剤であったため毒性が高く、1943年にマホニーらがペニシリンによる治療に成功してからは、使われなくなります。

あだしごとはさておき。
梅毒は南米の一風土病であったものが、コロンブスによってヨーロッパにもたらされたという説が有力ですが、戦争(1495年のフランス・イタリア戦争)や人の交流とともに瞬く間に世界に広がり、永正9年(1512)には大阪で感染が広まったという記述があります。おそらくは当時唯一交易のあった中国、当時は明から、博多や堺、琉球を経て入り込んだものと考えられています。それを裏付けるように当時の呼び方は「唐瘡(とうがさ)」、「琉球瘡(りゅうきゅうがさ)」。現在の病名である「梅毒」は、もともと黴毒(梅毒)と呼ばれていたものが、梅毒独特の丘疹や瘡蓋がヤマモモ(楊梅)の実に似ているため「楊梅瘡」、そして「梅毒」に変化していったのではないかと言われています。なお「花柳病」という呼び方もありますが、主に明治以降用いられるようになった言葉で、性病予防法の前身であった花柳病予防法は昭和2年(1927)年の公布です。
できもの、はれものを意味する「瘡」(かさ)ですが、病気としては梅毒もしくは疱瘡を指します。梅毒は性感染症ですので、明らかに本人に身に覚えがあることが多いのですが、自覚がない場合は、症状や進行状況からハンセン病と間違えられることも多く、梅毒の特徴的な症状である発疹を疱瘡と混同する場合もあったようです。

以前ご紹介したように、「瘡守」を名乗る神社があります。多くが命に直結する天然痘から守ってくれることを期待して信仰を集めますが、サルバルサンが開発されるまでは梅毒もある意味不治の病、人々は神に祈るしかありませんでした。「瘡守」を名乗る神社がありますが、梅毒、天然痘共に霊験あり、とされるケースが多々見られます。

「瘡守稲荷大明神」

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「瘡守大明神」 ~東京都大田区西糀谷 西仲天祖神社境内
西仲天祖神社は糀村村民久兵衛が設立したと伝えられますが、年代は不明です。境内に瘡守稲荷社があります。

梅毒の病原体、梅毒トレポネーマは低酸素状態でないと長く生存できず、そのため主に粘膜同士の接触により感染します。以前は血液、輸血を介した感染もありましたが、輸血用血液のスクリーニングが進んだ結果、現在ではほとんどありません。感染すると約3週間の潜伏期を経て発病します。症状の進行は4段階に分けられます。ただし現代では第3期、第4期まで進行することはまずなく、まとめて晩期顕症梅毒と呼びます。
第1期 病原体が侵入した部位に、0.3~3.0cm大のしこり(硬結)ができる。
      やがて周囲が盛り上がり、中央部に潰瘍を生じる(硬性下疳)。
      無痛性であり、一か月程度で軽快する。
第2期 感染3か月後、特徴的な紅斑(バラ疹)が生じるほか、多彩な発疹が現れる。
      梅毒性乾癬、扁平コンジローマ、梅毒性粘膜疹など
      発疹は半年以内に消失する。
第3期 長い無症状期を経て、皮膚、臓器に非特異的肉芽腫様病変(ゴム腫)を生ずる。
第4期 変性梅毒。血管系、神経系が侵され、進行麻痺が生じる。
      また骨組織も浸食され、鼻中隔が崩れて鼻が欠損したり、骨に腫瘍が生じる。
      梅毒が直接死因になるほか、合併症を生じて死に至る場合もあった。
無治療の場合、約1/3で晩期症状を呈するとされます。歴史上で梅毒に感染していて、死につながった可能性のある人物も散見されます。寛永年間に成立した「当代記」には、加藤清正、結城秀康(徳川家康二男)、浅野幸長に「唐瘡」の記載が見られますし、そのほかにも黒田勘兵衛、前田利長、徳川忠吉(徳川家康四男)にも疑いがあります。

「瘡守稲荷大明神」

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「瘡守稲荷大明神」 ~東京都港区芝公園
芝公園にほど近く、古川に架かる将監橋の橋詰にある小さな社です。隣接して元禄7年銘 納経石塔がありますから、古くからあるものかと思われます。

江戸における実際の罹患率はどれくらいだったのでしょう。杉田玄白は「形影夜話」(1810)の中で、自分の患者の7~8割が梅毒だと記しています。ただし臨床的判断だけでは、前述のとおり梅毒の症状が不定形なため、ほかの多くの病気が混じりこんでいるものと思われます。

「瘡守稲荷大明神」

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「瘡守稲荷大明神」 ~東京都目黒区中目黒 正覚寺境内
実相山正覚寺は元和5年に開かれたお寺です。仙台伊達家との関係が深く、三代綱宗の側室で、四代綱村の母である三沢初子が開基となっています。境内に稲荷社が祀られています。

江戸の梅毒、実際のところ罹患状況はどうだったのでしょうか。ひとつの傍証として、庶民が埋葬された江戸深川の寺院の人骨調査では、7.0%に梅毒による腫瘍があったとのことです。ちなみに武士階級が埋葬された湯島の寺院では3.0%で、身分により感染機会、万延している割合に違いがあったことがうかがわれます。
また今年の夏、大阪梅田の再開発工事現場から1,500体以上の人骨が出土したというニュースが記憶に新しいですが、「手足を中心に病変が見られる個体が3割近くあり、梅毒や骨腫瘍を患っていた可能性がある」と報じられています。

「瘡守稲荷堂」

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「瘡守稲荷堂」 ~神奈川県大和市下鶴間 定方寺境内
瘡守稲荷は江戸御府内だけでなく、近郊に広く散在します。下鶴間の定方寺の由緒は詳しく伝わっていませんが、瘡守稲荷堂については天保12年にまとめられた新編相模国風土記稿に境内社として稲荷社の記述がみられますので、古いものと思われます。

江戸にせよ、大阪にせよ、当時の都市構造はいびつで、人口構成がかなり男性過多でした。地方からの労働力としての出稼ぎは多くが男性であり、武家においても参勤交代に代表される江戸詰は単身赴任が原則でした。家族を持たない男性の粗暴行為の抑制手段として、為政者は公娼制度を取り入れます。そして結果的には公娼制度を温床にして、性病が蔓延することとなるのです。これはやがて花柳病予防法、性病予防法の必要へとつながっていきます。

「黴瘡約言」

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「黴瘡約言」 ~筆者蔵
享和2年(1802)、尾張藩医であった浅井南皐(和気惟亨・わけこれゆき)が記した梅毒治療の専門書。診察、治療の内容が具体的であり、当時の医者に重用された。

江戸の末期に海外から持ち込まれ、明治にかけて日本中を席巻したのがコレラです。内容が多くなるので、別項で取り上げたいと思います。


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