SSブログ

いつか空が晴れる №93 [雑木林の四季]

                    いつか空が晴れる
          ―オンブラ・マイ・フー
                   澁澤京子

 子供の時、家に『木・わたしのお友達』というフランスの子供の書いた詩集があって、私はその本が好きだったのだけど、あの本は今いくら探しても見つからず、ネットで探してもない。

昔、祖父の家の庭には大きな欅の木があって、私はその欅が大好きで祖父の家に着くとすぐに庭に飛び出した。人間に比べると木はとても静かでしかも忍耐強くて、なんて立派で上品なのだろう、と子供の私は考えていた。今思い出してみても、木と私の間には何等かの心の交流のようなものがあったような気がする。きっと、自然というのは無言で子供にいろいろ教えてくれるのだろう。

母が亡くなる年の春、私は母と奈良に行った。東大寺二月堂のお水取りを観に行ったのだ。752年から途切れることなく続く儀式だという。何日も参籠して身を清めた若いお坊さんたちが松明を掲げて走る姿はすごい迫力で、あとで調べるとこれは神道や密教、修験道、呪術など様々な宗教の混じった懺悔と清めの儀式で、懺悔によって清めてから春の到来になる。そういえば、私はお水取りを見学してからその後は切羽詰まって参禅することになったり、やたらと懺悔する機会が多くなったが・・・

お水取りの翌日、心臓が悪くて少し歩けば息切れする母にあわせてゆっくりと二人で奈良公園を歩いた。高野山の自然といい、関西の自然は関東近辺に比べると、古くて重厚な感じがする。天に届くような大木が林立して、鬱蒼と暗い。

母は大きな高い木に両手を当てて目を瞑り、じっとしていた。

今度は三島大社の大木を観に行きたいと言っているうちに、母は亡くなった。

母が亡くなって暫くしてから、私は三島大社を訪れた。夏だった。

中が空洞になって祠が祭ってある、古い大きな楠。木も、あのくらいの大木になると何か性格のようなものが備わっているようで、観に行ったというより、会いに行ったという感じがする。

ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」は、昔、キャスリーン・バトルが唄っているのがCMで流れていた。その後、米良美一さんが唄っているのを聞いたらこの歌にまさにぴったりの声で、ヘンデルとかバッハは、女性の声の甘さがなく男の人の声のように太くもない、男でもなく女でもない中性的なカウンターテナーの声があっているのじゃないだろうか。それからというもの、フィリップ・ジャルスキーとかアンドデアス・ショールとかスラヴァとか、カウンターテナーの歌をいろいろと聞いたけど、一時期の米良美一さんの声が一番、天使の声に近かったんじゃないかと思う。

「精神が荒れていると、すぐに声に出てしまうのでばれます。」ということをいつか米良美一さんがテレビで話されていたけど、そういうものなのかもしれない。声って実にデリケートなのだ・・・

お坊さんのお経をあげる声とか声明の、よく響きわたる声。発声練習を重ねているうちにああいう声が出てくるのだろうだろうと思っていたけど、ある時、坐禅修行の長い人ほどお腹の底から響くような声を持っている人が多いことに気が付いた。

お坊さんの修行と声は関係あるのかもしれない・・禅のお坊さんは独参の時、相手の声を微妙に聞き分けることによって相手の修行状況を察知されているんじゃないかと思われる。

男の人には、ジェンダーレスの、中性的な声を出せる人が多いけど、女にはカウンターテナーに相当する中性的な声の歌手はいるんだろうか?と思って探していたら、いました。

女性アルト歌手で指揮者でもある、ナタリー・シュトゥッツマン(仏)。

普通の女性歌手のようにドレスアップしているわけではないけど(指揮者も兼ねているせいか)、その歌声は堂々として素晴らしく、バッハが似合う。

もう一人気に入っているのはサラ・ミンガルド(伊)という女性アルト歌手。

彼女の歌声はナタリー・シュトゥッツマンよりソフトで中性的、天使的で美しい。

バッハとかヘンデル、そして「オンブラ・マイ・フ」のように樹木を讃える歌には、やはりこういう中性的な声がとても似会う。

樹木崇拝は古代の日本にもあるし、中国(再生の木である建木)にもエジプト(イチジクが聖なる樹木)ゲルマン神話(世界の軸である巨大なトネリコ)にも、メソポタミアの(キスカヌの樹)古代ギリシャ(トネリコはポセイドンに、オークはゼウスに捧げられた)にもシベリアシャーマン(カバノキ)にもケルト民族(聖なる暦・樹木のアルファベット)にも、ヘブライのカバラ(生命の樹)とオリーブ信仰にも、祝福された樹であるオリーブの油はキリスト教では聖油であるし、エデンの園には生命の樹が登場する。アイルランドの聖ブリギット(もとはケルトの古い女神)はカバノキを信仰するもので、浄化の祭りである聖ブリギット祭は奈良の「お水取り」と同じ二月に行われる。そしてインド(宇宙樹アシュヴァッタ・インドボダイジュ)でお釈迦様が悟りを得たのは菩提樹の下。インドの女性が始めた手作り絵本でタラブックスという出版社があって、『夜の木』という絵本がとても美しい。聖なる樹をテーマにしたもの。仏教やキリスト教以前の遥か昔から、樹木信仰は世界各地にあったのだ。(樹木崇拝についてはフレイザーの『金枝篇』が面白い)

映画『ミッドサマー』は、古代の樹木崇拝と儀式をそのまま実行するカルト宗教集団の怖い映画だったけど、実際、古代にはかなり残酷な生贄の風習があったのかもしれない。

樹木は天と地をつなぐものとして、そして植物の持つサイクルである生死の循環「死と再生」はキリスト教では「受難・復活」として重要なテーマとなっているし、仏教、禅には「大死一番」という言葉がある。(徹底的に己を殺すことによって蘇る)

これは聖書の「一粒の種が死ななければそのままであり、死ねば多くの実をもたらす。己の生命を愛する者はこれを失い、捨てれば永遠の生命を得る」(ヨハネ12・24~)とほぼ同じ解釈ができるだろう。

「大死一番」も「己を捨てて生きる」も、実感としてかなり理にかなった言葉じゃないだろうか。

たとえば、これは音楽やダンス、美術で表現活動している人にとっては割とピンとくる言葉だと思う。表現活動にとって何よりも障害になるのは、自意識だったり自我だったりするからだ。才能ある芸術家は、私生活ではどんなに我儘なエゴイストでも、イザとなると上手く自我を捨てることができる人たちなのだろう。

数学者のラマルジャンは瞑想によって女神から数式を与えられた。

「天啓」という言葉があるけど、不意に向こう側の世界と波長が合ってしまうことであって、つながりやすい人が天才といわれているのかもしれない。・・・人間の意識には、人跡未踏の発見されていない領域がまだまだたくさん残されていると思うと、天才じゃなくてもなんだかわくわくしてくるではないか。

そして、坐禅とか瞑想というのは、人が静かな樹木になる訓練じゃないかと時々思うのである。




nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。