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多摩のむかし道と伝説の旅 №49 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

       -伊奈の石工が江戸と往還した伊奈道を行く―6

                 原田環爾

 再び坂道の睦橋通りを下って行くと坂道の沿道左に小河観音と称する小さなお堂がある。小河というのはこの地域を古来「小川」と呼んでいたことによるのであろう。観音堂の前を北西方向に上がる坂道は観音坂と言い、お堂49-1.jpgの裏を流れる水路は先の竜伝説に出てきた舞知川だ。小河観音には面白い話がある。平安時代に成立した仏教説話集「日本霊異記」によれば、正六位上の小川の大真山継という者が蝦夷との戦から無事帰ってきた。これは妻が木造りの観音様を造って無事を祈ったお蔭だと感謝し、山継もお祈りするようになった。その後天平宝宇8年(764)藤原仲麻呂の乱に関わり他の12人とともに死罪を宣告された。次々と処刑され最後に山継が首を切られようとしたその時、観音様が現れ、「なぜこんな汚い所にいるのか」と山継の襟首を踏みつけた。そこへ天皇の勅使が現れ、死罪は免れ信濃国への流罪となった。やがて罪は許されて帰国し、多摩郡の少領(副長官)になったという。
49-2.jpg 小河観音の前から右手V字に折り返す路地がある。路地を20~30mも 入れば高い石垣を斜めに上がる階段がある。石垣の上は今は住宅で埋め尽くされているが、かつてはに白壁で取り囲まれた屋敷跡があった。石の冠木門があり、中は平坦な土地で片隅に廃屋となった民家があった。土地の歴史家 よれば多摩の豪族大石氏の居館跡で、二宮城跡ではないかと言われている。ただ近年はここよりすぐ北にある二宮神社の境内地の一角が、発掘調査から二宮城跡ではないかと言われている。いずれにせよ秋川を挟んで南に滝山城跡、北に二宮城跡と、まさにこの地域一帯が大石氏の地盤であったことを物語っている。
 坂道を下りきると多摩川に架かる大きな睦橋の袂に来る。川風に吹かれながら橋を渡る。上流方面の対岸49-3.jpgは桜並木で季節ともなれば数千本の桜が満開となり花見客で大いに賑わう。一方下流方面の対岸には福生南公園が広がる。また下流は秋川との合流点で、遠く多摩川右岸に目をやれば中世の豪族大石氏が築いた滝山城祉がある加住丘陵(滝山丘陵)が望まれる。橋を渡りきる辺りに来ると橋の由来碑が立っている。碑面にはこの地が伊奈宿から江戸へ向かう伊奈道の「熊川の渡し」があったこと、江戸時代は石切職人らの往来でにぎわったこと、更にその後、五日市宿が栄えるとともに伊奈道が五日市街道と呼ばれるようになって、渡しもその主役を上流の「牛浜の渡し」に譲るに至り、明治の中頃にはその姿を消してしまったことなどが記されている。
 睦橋を渡りきると右に福生南公園の入口があり、少し坂を上った左手に真福寺がある。真言宗豊山派の寺で横沢の大悲願寺の末寺という。また右手丘の上の住宅街の49-4.jpg中に福生の地酒「多満自慢」や「多摩ビール」で知られる石川酒造がある。石川酒造は、文久3年(1863)に始まり、明治14年熊川の地に酒蔵を建てたという。明治20年にはビールを製造したことで知られている。現在は多摩の地ビール「多摩の恵」の銘柄で限定生産販売している。
 伊奈道はこの先、江戸へ向けて二つのルートが推定されている。一つは奥多摩街道を経て立川から甲州街道に入る道筋、今一つは玉川上水の天王橋辺りに出て現五日市街道を辿る道筋だ。本稿での伊奈道の旅はここより最寄りの拝島駅に向かうことで終わりとする。(完)


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