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批判的に読み解く歎異抄 №14 [心の小径]

本願ぼこり(造恵無碍・第十三条)の問題

       立川市光西寺住職  寿台順誠

(3)唯円が「本願ぼこり」(「造悪無碍」)を擁護することに理由があるとすれば、それは何か?

 次に一旦唯円の立場に立って考えてみましょう。唯円が「本願ぼこり」(造悪無碍)を擁護することに理由があるとすれば、それはどういう理由なのかということです。
 『欺異抄』は親鸞が亡くなってから三十年ぐらいして書かれたと言われていますが、善鸞事件(1256年)の頃とは違って、既に「造悪無碍」はほとんど問題ではなくなっており、むしろ抑圧的なほどに「専修賢善」が押し付けられるような状況にあったとすれば、十三条のように「造悪無碍」に対して甘すぎると思えるような立場取りをすることもありうるかもしれません。
 何を言っているのかというと、例えば私たちがある村に住んだといたしましょう。とても品行方正な村です。誰にも悪は見当たりません。悪いことを思うことさえしません。会う人は皆よい人ばっかり。………これはちょっと窮屈だと思いませんか。そういう社会だと、敢えてちょっと悪さをしてみたくなりませんか。もうとことん管理されていて、もう皆機械のようです。悪いことなど一切しません、犯罪は全くありません。本当にもうみんないい人ばっかり。………騒ぎたくなりませんか。そこまで「造恵無碍」(本願ぼこり)が駆逐されちゃうと、現代の憲法的な表現を借りれば「表現の自由」さえなくなっちゃう。それだとやっぱり窮屈だからちょっと暴れてみたくもなる。もし十三条を擁護するならば、そんなところかなと思います。
 しかし、事実はやっぱりそうじゃなかっただろうと思います。そしてそう思わせるのが資料の4ページの注二十一に挙げた「制禁」です。『欺異抄』十三条には、「なんなんのことしたらんものをば、道場へ入るべからず」なんて、最近はそういう「はりぶみ」をしていたりするけれども、そんな張り紙はいらないんじゃないのと、そんなことするのは親鸞聖人の教えに反しているんじゃないかと言われています。そうした「はりぶみ」の代表的な例が次の「制禁」です。

制禁 一向専修の念仏者のなかに停止せしむべき条々のこと(1)一、専修別行のともがらにおきて、念仏菩薩ならびに別解別行の人を誹誘すべからざること。(2)一、別解別行の人に対して、評論をいたすべからざること。(3)一、主・親におきたてまつりて、うやまひおろかになせること。(4)一、念仏まうしながら、神明をかろしめたてまつること。(5)一、道場の室内にまゐりて、嫡慢のこころをいたし、わらひ、ささやきごとをすること。(6)一、あやまて一向専修といひて邪義をときて、師匠の悪名をたつること。(7)一、 師匠なればとて、是非をたださず弟子を勘当すべからざること。(8)一、同行・善知識をかろしむべからざること。(9)一、同行のなかにおきて、妄語をいたし、うたへまうすといふとも、両方の是非をききて、理非をひらくべきこと。(10)一、念仏の日、集会ありて魚烏を食すること、もろくあるべからざること。(11)一、念仏勤行のとき、男女同座すべからず。みだりになるべきゆゑなり。(12)一、かたじけなきむねを存じて、馬の口入、人の口入すべからざること。(13)一、あきなひをせんに、虚妄をいたし、一文の銭なりともすごしてとるべからず。すなはちかへすべし。(14)一、他の妻をおかして、その誹誘をいたすこと。(15)一、念仏者のなかに、酒ありてのむとも、本性をうしなひて酒くるひをすること。(16)一、念仏者のなかに、ぬすみ、博奕をすること。(17)一、すぐれたるをそねみ、おとれるをかろしむること、もろくあるべからざること。右、このむねを停止せしめて、十七ヶ条の是非、制禁にまかせて専修一行の念仏者等あひたがひにいましめをいたして、信ぜらるべし。もしこのむねをそむかんともがらにおきては、同朋同行なりといふとも、衆中をまかりいだし、同座同列をすべからざるものなり。仍制禁之状如件。弘安八年(1285年)八月十三日 善円在判」(佐藤正英『欺異抄論釈』青土社、2005年、577621ページ) (この項つづく)

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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