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医史跡を巡る旅 №74 [雑木林の四季]

「医史跡を巡る旅」 №74 江戸の疫病 中篇
 
          保健衛生監視員  小川 優

前回、「お役三病」のお話をしましたが、この疱瘡・麻疹・水痘、実は日本における最初の法定伝染病にあたります。幕府評定所の編纂した御触書集成の中に「疱瘡麻疹水痘之部」が記録されています。この御触、江戸時代に何回か出され、内容も微妙に異なります。

「御触書 寛保集成 疱瘡麻疹水痘之部」

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「御触書 寛保集成 疱瘡麻疹水痘之部」 ~国立公文書館デジタルアーカイブ

最初に定められた延宝8年(1680)の「疱瘡麻疹水痘遠慮事」、疱瘡の項では、
一 病人は見候日より三十五日過候て罷出、御目見仕候
一 看病人は三番湯掛罷出、御目見仕候
とありますが、宝永7年(1710)の「疱瘡麻疹」では将軍御側、奥向に登城するにあたっては「七十五日」となります。寛永7年では三番湯後に改められ、さらに正徳3年には一番湯掛から七十五日後になりますが、享保元年(1716)になってまた三十五日に戻されます。宝永元年(1704)には、五代将軍綱吉が溺愛していた長女鶴姫が疱瘡で没しており、より慎重に期間を長くとるようになった可能性があります。そしてその後、経験則に基づく見直しがあって元に戻され、期間が短くなったと。奥医師からの意見具申や、幕閣の病気理由の欠勤が長引き、幕政に影響を来しでもしたのでしょうか。昨今の政策決定と一緒で意思決定過程の記録がないので真相はわかりませんが、所謂朝令暮改、今回の新型コロナ騒動でも、同じようなことが続いていますね。

「健康への祈り」

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「健康への祈り」内藤記念くすり博物館展示 ~岐阜県各務原市川島竹早町

この御触で制限されていることは江戸城への登城の禁止であり、江戸城内に感染症を持ち込ませない、つまり将軍及びその関係者に疫病をうつさせないことを目的としています。ここが伝染病の予防を目的とした、後の法定伝染病の取扱いと異なる点です。しかし特定の疾患に罹患したことにより、法(法度)に基づいて行動が制限されるという意味では、法定伝染病と同じです。ただし目的が要人の保護であるか、公衆衛生(国家)の維持であるか、国民ひとりひとりの生命と健康を守るかというのは大きな違いになります。それが御触と伝染病予防法、そして現行の感染症法との違いにもなっています。

「蘇民将来~病魔退散のお守」

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「蘇民将来~病魔退散のお守」内藤記念くすり博物館展示 ~岐阜県各務原市川島竹早町

法定伝染病とは感染症法(正確には「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」平成10年)の前身、伝染病予防法(明治30年)において予防することが定められていた10種類の感染症のことで、現在では感染症法で規定される感染症のことをいいます。伝染病予防法の内容は、おおむね感染症法に引き継がれていますが、予防および感染拡大防止に必要な、届出、患者隔離、消毒や交通遮断が定められていました。特に隔離や消毒などに強権的で、人権に対する配慮が欠けていたきらいがあります。つまり法の趣旨として「誰を」守るかということで、伝染病予防法は根底に富国強兵があり、身体強健な国民=兵士の確保をもって国家、国体を守ることを目的としていたとも言えます。
比喩として、なぜ前時代的な「法定伝染病」という言葉をもちいたかというと、このような思いからです。話が脱線しましたね。

「蘇民将来~注連縄」

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「蘇民将来~注連縄」内藤記念くすり博物館展示 ~岐阜県各務原市川島竹早町

江戸時代にはお役三病のほかにも、かぜ(インフルエンザ)もたびたび流行っています。高熱を伴いますが、激しい咳が主症状なので、ほかの疫病とは区別されていたようです。ただいわゆる風邪(感冒)と、インフルエンザ(流行性感冒)が厳密に区別されるようになったのは近年で、当時はおそらくインフルエンザに罹っても風邪のひどいもの、流行かぜと認識されていた節があります。
天安2年(858)から仁和3年(887)まで、天皇三代の治世の歴史をまとめた「日本三代実録」のなかに、貞観4年(862)「一月自去冬来、京城及畿内外多患咳逆 死者甚衆矣」との記述があります。ここに記された「咳逆(しわぶき)」こそが、インフルエンザとされ、この記述が日本史上初めて記録されたインフルエンザの両行ではないかとされます。流行はこの年では終わらず、翌貞観5年「於御在所及建礼門 朱雀門 修大祓事 以攘災疫也 賑給京師飢病尤甚者 自去年冬末 至于是月 京城及畿内畿外 多患咳逆 死者甚衆矣」(昨年暮より都やその周辺で「咳逆」に罹る者が多く、甚だしい死者が生じたため、天皇の御在所とそれに通ずる門で邪気を祓い、都において救民済世を行った)、更に翌6年も「勅令五畿内并山陽南海両道 預鎮謝疫癘 兼転読般若大乗 以神祇官奏言彼諸国可有天行也」(近畿地方と山陽・南海地方に勅令を発し、疫病を鎮めるために、般若経を唱えさせた)とあります。3年越しの大流行であったようです。

「蘇民将来~祇園祭ちまき」

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「蘇民将来~祇園祭ちまき」内藤記念くすり博物館展示 ~岐阜県各務原市川島竹早町

その後度々猛威を振るいましたが、早くから国外から持ち込まれることに薄々気付いていたようで、鎌倉時代にすでに「夷病(えびすやまい)」との標記が見られます。そして鎖国が強化された江戸時代はじめの頃にはほとんど流行が見られない一方で、少しずつ外国との交流が行われるようになった後では、世界的流行(パンデミック)、あるいはその余波が日本にも押し寄せるようになります。
国内流行の記録からいくつか拾い、パンデミックと対比させてみます。

享保15年(1730) 「風気流行、これは異国より渡り、長崎より流行り来たり候」
        1729年から翌年にかけロシア、ドイツ、スイス、イタリアで流行
享保18年(1733) 全国的流行 江戸の死者八万とも
        1732~1733アメリカやヨーロッパで流行
明和6年(1769) 稲葉風
安永5年(1776) お駒風
安永9年(1780)
天明元年(1781) 1781~82ヨーロッパ、アジア、北アメリカを中心としたパンデミック
天明4年(1784) 谷風
        1781~83ヨーロッパ、ロシア、インドにかけてパンデミック
寛政7年(1795) 御猪狩風
享和2年(1802) アンポン風、お七風、薩摩風 パンデミックが疑われる1799~1802
        1798~1801北米に始まり、ヨーロッパ、ロシア、アジアで流行
文化5年(1808) ネンコロ風
        1805~1808アジア、ヨーロッパ、北米で流行
文化8年(1811)
文政4年(1821) ダンボウ風
文政7年(1824)
文政10年(1827) 津軽風
        1826西半球、1827ロシア、シベリアで流行
天保2~3年(1831~32) 琉球風
 1830~33パンデミック
嘉永3年(1850)
安政元年(1854) アメリカ風
        1852~1855世界各地で流行

日本人の気質か、文化かはわかりませんが、江戸庶民は流行ごとに「~風」と洒落た名前を付けています。「谷風」は当時の名横綱、谷風梶之助から名付けられています。ちなみに強いことで一世を風靡した谷風ですが、11年後の次の流行「御猪狩風」に罹り、あっけなく没しています。ほかにも人の名を冠したものは「お駒風」が、流行りの浄瑠璃「恋娘昔八丈」の登場人物「城木屋お駒」から、「お七風」は恋人に会いたい一心で放火して処刑され、浄瑠璃や歌舞伎、謡曲として取り上げられた八百屋お七からとられています。
また「ネンコロ風」は子守歌のねんねんころころの歌から、「ダンホウ風」はたんほうさんという小唄からと伝えられています。
薩摩風、琉球風は、初めて感染が見られた地域の名前を付けたものとは思いますが、前述のとおり国外から持ち込まれた窓口、あるいは遠い地から持ち込まれたということで抽象的に呼び慣らされた可能性があります。安政元年はご存知、ペリー来航の年ということで世情から名付けられましたが、実際にペリー一行により持ち込まれたかどうかは定かではありません。そして明治になって、スペイン風邪の洗礼を受けることとなります。

まだあとふたつ、取り上げていない江戸の疫病があります。コレラと梅毒です。後篇に続きます。


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