SSブログ

じゃがいもころんだⅡ №33 [文芸美術の森]

私の血液型はA型からO型へ

               エッセイスト  中村一枝

 人間って、誰でもそうだとは思わないが、自分については大目に見るというか、ひいき目に勘定する傾向が強いのでは、と思う。
 自分がそんな高齢になったとは思いもせず、、いまだにけらけらと笑ったり、遊んだりは当たり前と思っているおろかさである。だからどんなに年をとってもあまり変わらずに、そのままずっと生きていられるという得点がある。
 今も、四年前に死んだ娘のことはよく思い出す。娘の部屋も改装したが、ピアノだけはそのままだ。あとは、以前と全くちがっているのは、この部屋に入ると、どうしても娘がそこいらから声をかけてくるような、元気でいるような思いに駆られるから妙である。
 娘が重い乳がんをわずらっていたことも、亡くなってから市ったことである。もちろん当時いろいろ事情はあったにせよ、母親として今だにざんきの念にさいなまれる。
 私は幼い時からひどい小児喘息で、両親はこのままでは育たないだろうと嘆いていたらしい。それだけに、いわゆるおかいこぐるみで大事に育てられた。それが四十を過ぎてテニスを始めてから信じられないほど丈夫になった。溺愛してくれた両親を恨むつもりは全くないが、それにしても、変な妙薬を飲まされたり試されたりしたものである。廊下の隅にぶらさがっていたトンボの羽もその一つだった。
 四十五を過ぎて始めたテニスに熱中し、朝から晩までテニス詰めの毎日だった。不器用で運動神経のとろい方だから、いくらやっても上手にならないのに、それでも四十有余年テニスに熱中していた。自分の住んでいる家がテニスコートの隣だと気付いたのは、住んでから十年くらいたってからだった。自分とは全く無縁だと思っていたテニスをすすめてくれた友人がいて、ラケットをくれた。テニスを始めた時、母などは無茶だといって激しくとめた。夫にいたっては私に好きなものができて自分も勝手ができると喜んでいたふしがある。
 とにかくテニスは私の後半生を変えた。
 朝、ゴミを捨てるときに、集積場の左を見ると、いやでもテニスコートが目に入る。すぐにでも飛んでいきたい思いは今でもある。それなのに、テニスは上手にはならなかった。下手である。そんなに下手っだと自他ともにみとめているのにテニスが好きだった。
 テニスを通じてできた親しい友人も何人もいる。それが足が悪いことでやれなくなったのは今だになんとしても口惜しい。もう一度ラケットを持ってテニスコートに立ちたい。きっと私は生きている間中思い続けているに違いない。
 テニスを始めてもう一つ変わったことがある。小さいことにくよくよしなくなった。性格がおおらかになったことである。テニスをやめてもそれは同じだから、テニスは私の嫌な性格までO型に変えたのかもしれない。




nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。